2009.3.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  70. 私はどうして阪大理学部物理学科を選んだか
 

 

 2 月の初めに昔の同級生 2 名の連名で次のような手紙が舞い込みました。

 

「理学部物理学科昭和 25 年卒業の皆様へ

 (前略)

 我々のクラスメートがあの混乱の時代に何故物理学科を選んだのか、又卒業時にどの様にして現在の道に入ったのかは、お互いにあまり解っていません。そこで、関東在住の岸と三杉が話した結果、この際その頃の情報をお互いに交換すると共に、後に書き残して置くのも意味があるのではないかと言うことになりました。

 そこで皆様にご投稿をお願いすることにしました。長さは全く任意です。締切りは特にありませんが、一応 3 月末を考えております。あまり時間を置かずさっと書いてください。

 全員のご投稿を期待して居ります。原稿が集まりましたら小冊子にして皆様に配布したいと思います。

 (以下略)  」

 

 私の場合は、医学部を出てからの二度目の入学になるので、話は長くなります。先ず何故初めに医学部へ行ったのから始めなければなりません。実は私は初めから医学を志したわけではありません。中学二年のときに医者をしていた伯父が心筋梗塞で急逝し、三男坊の私がその家督をつぐことになったのです。その伯父には子供がなく、私はその後を継いで医者になることを期待されていると思い込んでいました。そこで旧制高校のときに医者の伝記や小説を読み医学への志向を高める努力をしたのです。その中には前にご紹介したアロウスミス(本ページ61)などもありました。いよいよ志望の大学を決めるときになって父から「何も医者にこだわらなくてもよい」と言われたのですが、もうそのときには私の志望は決まっていました。物理の教授からは「何故君は物理へ行かんのかね」と不思議がられたのですが。

 でも、残念ながら医学部の学生になってみると、毎日記述と暗記のための講義の連続なのに失望しました。幸い生理学の教授が「学生も研究室においてやるから、実験の手伝いをしないか」と誘ってくださいました。そこで一年上の学生で同じような悩みを持っている細見さんと出会い、一緒に物理の勉強をしようと「力学」の本を読むことにしたのです。でもそれは結局ものになりませんでした。でもこの失敗の経験が、私が二度目の大学受験をした大きな力になったのです。やっぱり何か物にしようとすれば、きっちりと学ばなければ物にならないということです。

 半年繰り上げ卒業で軍医になり、昭和20 年 11 月で退役になり、卒業前に研修させてもらった医局に戻りました。しかし、医局は次々と軍隊から戻ってくる先輩の医師で一杯で、受け持ち患者は 1 名だけ、図書室に行っても古い雑誌ばかり、当分研究室に入れてもらえる見込みもない、という状況でした。一方生活の方も下宿代が 3 ケ月も溜り、生活にも困っていました。そこへ私にとって救いになったのは医局に張られた「引き上げ船の船医募集」の告示でした。3 食付で手当てがもらえる、とうのは当時の私には救いの神でした。早速応募して引き上げ船に乗り込んだのです。ところが驚いたことに新聞には「京大副手率先して引き上げ船に」と美談のように書かれたのです。2 ケ月ほど船医をしてたっぷりと手当てをもらい、下宿の借金も返し少し余裕が出来ました。そこへ大阪で一寸したアルバイトも紹介してもらいました。大阪でなら兄がやっている診療所でも働ける、では、前に失敗した物理をもう一度やり直そう、と決心したのです。阪大を選んだのはもう一つ大学を二つ出るからには違った方がよい、その方が学閥からより自由になれるだろう、という思いもありました。

 こうして昭和 22 年に焼け野が原を通って阪大理学部へ通うことになったのです。私の最初の感想は、「医学部へいっている間に、私はなんて馬鹿になってしまったのだろう」ということでした。勿論昼は学生、夜は医者という二重生活、さらに同時に結婚してやがて子供も生まれるという過酷な条件はあったのですが。医学部では受けたことのなかった再試験も受けてようやく合格などということもありました。

 ご承知のように卒業した昭和 25 年はまた不景気で、兎に角一日も早く月給が欲しいということで、当時でも都落ちと言われた三重県四日市の三重医科大学の塩浜病院へ赴任してほっと一息ついたのです。赴任したのは当然内科ですが、そこの放射線科には医師がおらず、また丁度 X 線技師の国家試験が始まるということで、物理を出たなら放射線のことも詳しいだろと思われたのか試験準備の講師を頼まれてしまったのです。あわてて菊池先生の原子物理学の教科書をひっくり返して放射線の勉強を始めたのです。其の内に世の中が原子力の時代になり、私も何時の間にかその波に飲まれていったのです。

 

 

 
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