2008.7.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  62. ヘイフリックのモデル
 

 

 先月のアロウスミスにつづきまた横文字の名前が出てきました。こんどは小説ではなく実在の科学者の名前です。彼の名前は老化研究者の間では有名で、培養細胞には寿命があり一定の回数分裂するとそれ以上は分裂しなくなり、次第に老化し死に至るということを 1965 年に始めて報告したのです。それまではアレキシス・カレルの鶏の組織培養実験に基づいて培養細胞は無限に増殖をつづける、と広く考えられていたのです。このカレル博士は今の臓器移植のもとになる血管縫合術の開発の業績によってアメリカではじめてのノーベル生理医学賞を 1912 年に受けた大家です。その大家が鶏の組織は培養下で何時までも増殖を続けると主張し、それが当時の常識になっていたのです。カレルの実験系では培養液に鶏の組織抽出液を加えていたので、そのなかに生きた細胞が混じり、それで何時までも増殖を続けているように、思われたのだろう、というのが後での解釈です。

 ヘイフリックのモデルに従うとヒトの胎児の細胞は 50 回ほど植え替えると寿命が来て分裂をとめて老化し死んで行きます。年をとった人から取った細胞は年齢に応じてこの回数が少なくなり、早く分裂停止が起こります。その理由として今のところ、細胞の中の染色体の端についているテロメアという部分が分裂するたびに段々と短くなり、それが一定以下になると分裂が止まるというのが、一番有力な仮説です。がん細胞ではこのテロメアの短縮が起きないので、何時までも分裂をつづけ大きな腫瘍になるというわけです。

 この分裂細胞の寿命を、今盛んに言われている幹細胞に当てはめて考えるのが、老化の一つの仮説です。血球をはじめ腸管や皮膚など殆どの身体の組織は、それぞれの細胞系の幹細胞があって、それが分裂、分化してそれぞれの組織を作っています。各組織は幹細胞の分裂によって常に新しい細胞と置き換えられているということです。この幹細胞にヘイフリックの寿命が来てもはや分裂出来なくなったら、血液も腸管も皮膚もうまく働かなくなるでしょう。

 私がこんな老化の生物学の話を長々と書いたのは、実は私自身が最近経験している貧血は実は細胞老化の一つの現われではないか、と思いだしたからです。血液内科の専門家に調べて貰ったのですが、特に病的な異状は見つかりません。しかし、依然として貧血(赤血球減少)は治りません。身体もだんだんと疲れやすくなってきました。

 最近百寿者調査の報告を読ませてもらったところ、百寿者は皆貧血があると言うではありませんか。私が昔大学教授だったころに大学院生の仕事で、このヘイフリックのモデルに放射線を照射すると、その細胞寿命が線量に応じて短縮することを報告しています。私が 30 代の初めに十分に防護を心掛けずに放射線の実験を繰り返したことを思い出して、私にはその貧血が 80 歳代後半で早くも現れたのではないか、と思えてきたのです。でも身体のほうが徐々に進行する貧血に、何とか適応して、こうして仕事も出来ている、とすればこれもまた老化の別の面として注目するべきかも知れませんが。

 この私の仮説が、科学的な学説でありうるか、やはり単なる妄想か、貧血は輸血で補いながら、もうしばらく頑張って経過を追ってみることにします。八十路のつぶやきは、八十歳で始まりましたが、やがて八十台で静かに完結すると言うのも、良いだろうと思っています。それまで、もうしばらくお付き合い下さい。

 

 

 
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