2007.9.10
 
Editorial (環境と健康Vol.20 No. 3り)


社会と本誌の使命


菅原 努 *

 

 

 本誌は、20 巻 1 号の Editorial でも述べたように、環境と健康をめぐる問題について科学と社会を繋ぐ試みをつづけてきました。そこでは科学の成果を社会がどのように受容してきたか、また受容されなかったかを論じました。この場合には科学と社会を構成する個人とがいわば一対一に対応していたと言える状況でした。ところがこの数ヶ月の間に社会のなかの個人ではなく、社会のシステムそのものが現状でもうまく機能しなくなってきているのではないかと危惧されます。新聞紙上では地方の小さな町の公立病院が医師不足、採算割れで閉鎖され、町の住民は隣の市立病院まで遠路を通わねばならないとか、産科がなくなりお産が心配とか、医療不安の記事が目につきます。これを受けて日本学術会議の広報誌の「学術の動向」は 5 月号に特集「医療を崩壊させないために」を組み、中央公論も 6 月号に特集「病院崩壊」を組んでいます。最近農学部関係の人にこの話をしたら、「農」も同じで、「このままでは農も崩壊しますよ」と言われました。若い人は田舎を離れて都会へ出て行き、農村には老人ばかり残り、ちょうど医者が居なくなるのと同じで、働き手が居なくなっているということです。

 本号の特集は「食と薬」のことであり、ちょうど JCSD のページも、「食と栄養学」とを論じたものです。また NPO のページでも「がん治療について新しい考え方」を論じました。でもこの程度ではとても上に挙げたような差し迫った社会の問題に役立ち得ないのではないかと、本誌のありかたに疑問を突きつけられそうです。そのようなことを痛切に感じるのは、実は編集会議で編集者の一人に寄せられた在米の日系三世の科学者からの原稿をめぐって、盛んな議論があったからです。その原稿では「何故日本では成功した、戦勝国米国からの民主主義の移植が、イラクでは失敗しているか、それをアメリカ人は何故気付かないのか」が論じられていました。さんざん議論した結果、大事な話題だが民主主義という問題は我々のこの雑誌で取り上げる「環境と健康」からは課題が離れているし、荷が重いということで、掲載はしないことになりました。でも「文理融合、社会との結びつきを深める」といった本誌の目標からは、我々の力不足を認めざるを得ません。

 私の身近な人間がアルツハイマー病(以下 A 病と略)なのですが、初めに述べたあちこちで崩壊しそうな日本の現状は、同じような病気の初期症状ではないかと思えてきました。A 病では先ず短期記憶が消失します。5 分、10 分前に起こったことが記憶から消えてしまうのです。例えば人が訪ねてきて、それを送り出した後、茶の間に一緒に座って「今だれだれさんが来ていたろう?」と尋ねると、それに対する返事は「さあ、忘れた」です。それでも論理的な思考は十分できます。こうなると奇妙なことが起こるのです。人が話題を提供すればそれについて十分議論ができます。でも今まで得意であった料理ができなくなります。考えてみれば料理には計画すなわちメニューが要ります。それは時間を追って並べられた行動です。しかし、5 分前の記憶が無ければ 5 分先の計画はできません。最近の脳の研究では1)、このような短期記憶と短期計画あるいは想像とは同じ部位で行われているようです。機能の欠損そのものは一見軽微なもののようですし、提供された話題には堂々と議論できるのに、簡単な料理もできないという奇妙なことが起こるのです。今の日本の社会では医者が偏在している、若い人も偏在している、ただそれだけのことのようですが、そのもたらす社会的結果は恐るべきものになる可能性がありそうです。私は大変悲観的になりました。唯一の救いは、私はもう年寄りですので、社会が崩壊する前にこの世から消えていくだろうということでした。でもある本を読んで途端に勇気付けられたのです。そこでそれを皆さんにも伝えるべく久しぶりに筆を取って本号の Books に紹介することにしました。それは徳川恒孝著「江戸の遺伝子」2)です。

 詳しくは Books を読んで頂くとして、要は「江戸時代の 260 年の平和が意味したもの、それが私たちの心のあり方、ものの考え方にどのように影響しているか」を示し、私たちが忘れていた貴重なものを思い起こさせてくれます。とにかく今、戦後 60 年平和を護ってきたと言いますが、江戸のそれは 260 年ですよ。これは世界記録であることを忘れてはなりません。これが驚くべき成果であることは同じ時代の欧米の状況と比較してみても明らかです。その秘訣は「階層によって厳しく隔てられているが、根本的には全く平等の精神があったので、誰もが責任を持って自分の職分を果たした」というところにありそうです。さて皆さんこれに力を得て、一緒にこの迫り来る崩壊を防ごうではありませんか。本誌も少しでもそのお役に立ちたいものです。

 

文 献

1) Jessica Marshall: Future recall New Scientist 24 March 2007, 36-3 9.
2)  徳川恒孝:江戸の遺伝子、PHP研究所(2007)

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)