2007.9.10
 
Books (環境と健康Vol.20 No. 3より)

徳川恒孝 著

江戸の遺伝子


PHP 研究所 ¥ 1,500 +税
2007 年 3 月 5 日発行 ISBN978-4-569-65830-8

 

 

 著者は徳川宗家 18 代ですが、長年日本郵船につとめ世界各地に駐在した経験を持つ国際人です。私も初めは徳川の子孫が自分の先祖をほめたたえる自画自賛の本だろうと思って読みはじめました。しかし、すぐにそうではない、これは江戸時代という我々が半ば忘れ、半ば否定してきた時代にどんな意味があるかをわかりやすく、しかも説得力を持って、それが私たちのこころのあり方、ものの考え方にどのように影響しているかを教えてくれる万人必読の本であることを知ったのです。

 先ず大事なことは、江戸時代は 265 年にわたる安定した平和であるということです。これは世界的に見て稀有なことであると、著者がある講演で言ったら、発言があって「稀有ではありません。もう一つ完全な平和を守った政権があります。それはエジプトのプトレオマイオス王朝(前 305 〜 30)です。この王朝も約 300 年間、徳川幕府と同じく 15 代の王が平和を守り、しっかりした統治をしました」ということでした(24 頁)。それにしても私たちが先進国の見本にしている欧米にはこのような長い平和は全くありません。私たちは今、戦後 60 年平和を守ってきたと言いますが、265 年に比べたらたった 60 年ですよ。これから先 200 年この平和を維持する自信がありますか。どうしてこの平和を維持したか是非学ぶべきではないでしょうか。

 この本では、いろんな事象を同じ時期の欧米各国と比較して示しています。一例をあげれば、上水道と下水処理です。江戸の町では神田上水をはじめとして、幕府はあらゆる川の水質維持にも力を尽くしています。このころのロンドンはテムズ川に汚物を垂れ流し、ベルサイユ宮殿には便所がなかったというではありませんか(120−123 頁)。江戸ではそれは近隣の農村に送られ肥料になって活用されていました。

 もっと大事なことは、江戸時代は封建制度で人民は抑圧されていたと私たちは教えられてきたことです。これに対して“江戸時代は厳しい身分制度、士、農、工、商に縛られ、武士以外の階級、特に農民は(生かさぬよう殺さぬよう)という基本政策の下で呻吟したという従来からの「公式見解」とはだいぶニュアンスが違います(いまでも学校の教科者はこういう書き方をしているようです)。この新しい時代の寵児たちの才能を持て囃したのは謹厳な武家階級よりは、むしろ自由と平和と経済力を満喫していた武家以外の社会であり、豊かさを肌で感じ始めていた農村でした”(146 頁)。

 日欧の比較では面白い話があります。それは 18 世紀後半のことです。“1789 年にフランス革命がありました。このフランス革命の前年に日本では吉宗の孫の松平定信が将軍補佐となり「寛政の改革」を断行します。この二つの出来事、フランス革命と寛政の改革は一見なんの関係もないように思えますが、その頃起こった地球的な天候異変によって引き起こされた全く同じ事態、つまり厳しい食糧難によって起こったことです”(190−191 頁)。

 もう一つ最近の話題である環境保護に関係して、森林の話を引用しましょう。日本には今も豊かな森林資源がありますが、幕府は正保 2 年(1645)に諸国に山林乱伐禁止を命じています(128 頁)。江戸時代の森林政策についてはジャレド・ダイアモンド:文明崩壊,草思社(2005)下巻 36−54 頁に詳しく書かれています。

 ところがヨーロッパでは状況が全く異なります。“かつてアルプス山脈以北は深い森で覆われていました。そこに住んでいたケルト族やゲルマン族の人たちは、森には精霊が住むと信じており、樫や楡、樅などの巨木を神の宿る聖なる樹として太陽とともに祭っていました。9 世紀から 12 世紀頃にかけて、この北ヨーロッパにアルプスを越えてキリスト教がやって来ました。(中略)抵抗する原住民族は打ち破られ、深い森の樹々は次々とキリスト教の司祭たちの手によって切り倒されていきました。(中略)深い森は、「神」に従わない悪魔のすむ場所として破壊されました。(中略)余談になりますが、森を失ったヨーロッパには、ペストの大流行が起こりました。(212−213 頁)”。

 引用はこのくらいにしましょう。はじめに書きましたようにこれは万人必読の書です。日本のこれから、世界のこれからを考える人は、是非これを力のよりどころにして下さい。

菅原 努(編集委員)