2010.3.18
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  83. とうとう3月になりました
 

 

3 月 8 日(月)

 2 月号に書いたように、2 月2 日に入院し、そのまま1 か月以内にはあの世へ逝くであろうと、主治医にそれとなく言われ、自分もその覚悟でもう何も考えないことにしていました。それがいつの間にか長期戦になり、子供達が差し入れてくれる軽い読み物を読んで暇をつぶしています。従って皆さんに読んで頂くような内容のある話は何も出来そうにありません。

 

3 月9 日(火)

 3 月になりましたがまだなかなか寒波が去らないようで、今日も此処京都では雨ですが、テレビによると北国ではまだ雪のようです。

 昨日は金曜日から始めたリハビリの2 日目で、少しはしっかり歩けるようになった、目標はステッキだけでの歩行です、と話してきたのですが、夕方に主治医から病状説明があり、それによると「胸水はゆっくりとですが減少し、蛋白尿も少しずつ減りつつあります。しかし貧血が白血球減少にまで発展し、下大静脈の拡大があります。」とのことで、まだしばらく入院加療が必要です、と結論されました。私にはこれが「また容態の急変の可能性が出てきた」と理解され、いよいよ西行法師に従って「桜の下にて春死なん」と思ったことでした。

 

3 月10 日(水)雨のち晴れ

 明日は毎日退屈している私に、一寸興奮するような出来事がある予定です。

3 月2 日に秘書の森田さんから次のような連絡がありました。

『関西電力株式会社人材活性化室安全衛生グループ 河波様よりお電話がありました。放射線健康管理の件で、菅原先生に面談の上報告がしたいとのことです。

関西電力の役員数名で事務所にお邪魔したい(3 月上旬を目処に)、菅原先生が退院され、ご自宅で静養されていらっしゃる場合には、ご自宅に伺います。

もし菅原先生ご本人に対応いただくのが難しい場合は、奥様かご家族の方にご報告が出来れば良いです、とのことでした。』

 これに対して、明日長男の邦雄が私の代わりに会ってくれることになりました。さあ、一体何事でしょうか。私がすぐに考えたのは、私は大分前からこの会社の顧問をしていますが、ここ数年は講演も何もしていません。きっと「永らくお世話になりましたので、ここで役員一同から感謝を申し上げ、顧問退職ということでお願いにきました。」なのでしょう。

 

3 月11 日(木) 晴れ

 関電の用件はやはり予想通りでした。これは言われてみれば当然のことで、89 歳の病人が大会社の顧問を辞任するのは、遅きに失するくらいです。こうして段々と収入ではなく蓄えを食い潰す生活に入るわけですが、皆さんが60 〜70 歳台で始めることを89になって始めるので、要領がよくわかりません。

 

3 月13 日(土)

 今日は朝、ヴィラの日置さんが病室をのぞいてくれましたが、それ以外は誰も来ず、昼からはテレビで野球とサッカーを見たのですが、それが疲れの元になるかどうか、様子をみるつもりです。

 

 思い出すと昨日は来客が多く、昼過ぎに明子さんが2 月の入院費を支払いに来て立ち寄ってくれ、2 時40 分に財団の理事会打ち合わせに岸田さん、それに続いて直君、一休みしたら森田さん、と忙しく対応しました。直君には修士と就職のお祝いを渡し、森田さんには「環境と健康」の原稿を渡し、ほっとしているところです。

 夕食後の安静時間を、財団でホームページを新しくするので、初めに何か書いてやろう、とぼんやり考えて過ごしたのです。

 

3 月14 日(日)快晴

 昨日今日と2 日間、家族は誰も来てくれませんでした。そんなことは贅沢だとはわかってはいるのですが、日が暮れるとやっぱり何となく心寂しいものです。

 今月はまた入院日誌のようになってしまいました。これはただ私のこころのゆれをすなおに書いてみるためです。もう3 月も半ばになったので、この辺で打ち切ってホームページに回すことにします。

 

 

 
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