2008.10.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  65. 言葉と音楽
 

 

 この二つはいずれも聴覚を通して理解されるのが原則と言えるでしょう。だから私のような難聴の老人でも補聴器をつければ、話もできれば音楽も楽しめる、と思っていました。でも実際には何とか話は出来ても、音楽は全く楽しめないのです。補聴器屋さんは、それは補聴器の性能によるので、ということで特に音楽用の補聴器を買いましたが、残念ながらそれでも駄目でした。それにとどめを刺したのが、この夏の北京オリンピックのテレビ中継でした。日本人で金メダルを獲得し表彰台に上がる姿を私も喜んで見ていました。メダルを胸にかざった選手が国旗掲揚に向いている時に、同時に国歌が伴奏されているはずですが、それが私には全く聞こえないのです。何となく感激が半減したような気分でした。

 その少し後で、「まや はるこ」さんのボイス アートの実演に参加する機会がありました。低音はお腹から、中音は胸から、高音は頭の先から、「アー」と言う声を長く出し続けます。先ずはるこさんが発声し、それを聞いて私達が同じ声を出してそれに応じるように言われました。それを調子を変えて繰り返していくうちに、何となく気分まで変わってきます。ここではこのボイスアートの解説をするつもりはありません。ただその時に気が付いたのは、私にも高,中、低の音程の違いは分ったということです。勿論絶対音程としては自信がありませんが、音の高さの違いは理解できたということです。それなのに何故歌のメロデイーが分らないのか不思議で仕方がありません。

 話は飛びますが、私たちは虫や鳥が声を出すのを、虫が鳴き、鳥が歌うと言います。私にもせみの鳴き声や鳥のさえずりは、かすかながら聞き取れます。これは動物の恋の歌なのか、語りかける話なのか、お考えになったことがありますか。この質問に対する答えのヒントが最近の New Scientist(2008 年 8 月 16 日号 38−41 頁)という雑誌の記事から得られました。題は More than words(言葉以上のもの)というのです。イギリスのKEという家族の話から始まります。この家族の全員が文法、書く事、言葉の理解が上手く出来ないばかりか、流暢にものを言う口の動きが出来ないのです。2001 年に遺伝学者がこの家族の遺伝子分析をして、ある遺伝子に突然変異があることをみつけそれを FOXP2 と名付けたのです。これこそ言葉の遺伝子で他の動物にはない特別のものだと思ったのです。ところがあにはからんやこれは多くの動物に広く存在し、しかもその間の変異がたいへん少ない事がわかってきました。ヒトとチンパンジーでもたった二つのアミノ酸が違うだけです。また恐竜にもこれが存在したようです。その後の研究で分ったことはこれは声を出すような複雑な運動の調節をつかさどっているもののようです。

 私の理解では、声を出すことは生物の間の連絡のために極めて重要で、この機能は生物進化の早い段階から発達していたと考えてよいでしょう。その一部のものを人間は歌(音楽)として聴いているとしても、それは音楽ではないのではないか、というのが私の問題提起です。音楽の理解には大脳の特別の機能が必要で、それは人間に特有のものである。私の耳から入ってくる音の信号は、それを今まで音楽として受け取るように組み立てられてきた大脳の部位にうまくヒットしないのではないか。私の脳は、補聴器を通して伝わってくる音を、言葉として理解できても、音楽としては理解できないのではないか。言葉という情報伝達のための普遍的なものと、音楽と言う情緒に関係した音の群れとは、大脳が違った受け取り方をしている、と考えるのです。

 丁度 FOXP2 遺伝子の研究がKEという家族から始まったように、私たち難聴者の特性の研究から、音の理解についての新しい展開があればと思い、私の個人的な経験とそれへの私の素人的な解釈を述べさせていただきました。

 

 

 
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