2008.8.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  63. 臨床セミナー外来
 

 

 先日久しぶりに上京しました。70 歳代までは週に 2 度 3 度と上京していたのですが、最近はよほどのことがないと出かけません。それだけ出不精になっているので、これも今年になって初めてかと思ってジパング倶楽部の手帳を見ると 2 月に一度上京していました。今回弱った身体に鞭打って東京まで出かけたのは、4 年前にこの欄(八十路のつぶやき 11)でその手紙を紹介した岡沢好子さんが第二回岡沢禎華写経展を銀座鳩居堂で開催するという案内を受けたので、是非その盛況振りを見たいものだと思いついたからです。

 岡沢さんの写経については 4 月に奈良の岡沢美術館を仲間と訪ね、沢山の作品を見せてもらい苦心談も交えたお話なども伺ってきましたが、こうして大きな展示場で周囲の壁一面に作品を並べてあると、その雰囲気はまた特別のものがありました。一度見て回った後、岡沢さんにお願いして、最近私が取り上げている「千手観音」の像の前で一緒に写真を撮ってもらいました。これが次の話に繋がるのです。

 私はかねてから自分たちの開発したがん温熱療法が「千手観音」のように一つの装置でありながら多様な働きがあり、それをがんと患者の状況に合わせて巧みに組み合わせることで、治療の効果をあげるのだ、と主張しているのです。最近東京でもサーモトロンを活用する病院が増えてきましたが、丸の内にそれを 3 台活用している診療機関があると聞いていましたので、それをどのように活用しておられるのか興味を持っていました。丸の内といえば東京駅にも近いので、帰りの列車に乗る前に立ち寄らせていただくことにしたのです。私の予想と違って 3 台を一箇所ではなく、関連の 3 ケ所の病院と診療所に分散して置かれ、それぞれで毎日 5、6 名の治療をしておられるとのことでした。丁度治療中の患者さんがおられ、声を掛けさせて頂きました。私の口から出たのは「熱くはありませんか」という愚問でした。言ってしまってから、もっとうまく患者さんを励ますようなうまい言葉が出せなかったかと、臨床感覚をすっかり失ってしまっている自分を見つけて、がっかりしました。

 これからがようやく今日の主題の「臨床セミナー外来」です。去る 1 月に、古くからの知人で昔は放射線生物学の分野で一緒に仕事をしたことのある東北大学名誉教授の松沢大樹氏が突然電話を掛けて来たのです。その内容は、「今度東京のクリニックでアルツハイマー病などの老人性疾患の相談窓口を開くことにしたから、一度奥さんを連れてこないか。」というものでした。そういえば大分前に彼を仙台に訪ねたときに PET や MRI などの新しい画像診断技術を使ってアルツハイマーなどの原因を追求するのだ、と言っていたのを思い出しました。そのときに「自分が始めるクリニックには、菅原さんの作った温熱療法の装置が入っている」と言っていました。訊ねてみるとそれは同じクリニックでしたので、松沢氏にも会えるように手配をお願いしておきました。案内されるとそこは普通の診察室をとおりこしたところで、部屋にはいるとセミナー室のように机や椅子が配置されています。驚いて松沢氏に尋ねると、「ここで患者さんやその家族を交えて、私がセミナーをするのだ」との答えでした。そこで渡す資料のプリントなども置かれていました。ここで一組 30 分のセミナーを月,火、水と週に 3 日していて、予約で一杯だとのことでした。内容は脳の画像診断を中心にして認知症やうつ病、統合失調症などのようです。彼によればこれらは何れも脳の損傷によるので、うまく幹細胞の分裂を促せばそれを修復でき病気も治るのだというのです。

 私には彼の学説とその治療を評価する力はありませんが、一般の学説とは違うので、それをここで詳しく紹介するつもりはありません。しかし、難しい病気について患者さんやその家族に、時間をかけてじっくりと説明するセミナーという新しい臨床のありかたに感心しました。そうしてすぐに思い出したのは、少し前に講演を聞いた順天堂大学の樋野興夫(ひのおきお)教授の「がん哲学外来」です。樋野教授は発ガン機構の研究者ですが、「がん哲学」とは、「死という避けられない問題と向き合い、それぞれの生き方を見つけていく姿勢を指す」ということのようです。ここで樋野教授は患者さんとじっくりと話し合い、お互いに何となく心が満たされて終わる、ということのようです。彼は扇子の絵を示して、がんの元は一つだが、それから沢山の変異を積み重ね出来上がったがんは極めて変化に富んだもので、開いた扇子の先に相当する。一人一人違うがんを病んでいるのだ、と言います。その一人一人と向き合って話し合うことが大切だ、それが哲学外来だというわけです。

 これに対して、「がん哲学」などとは笑止千万、一体哲学を何と心得ているのか、といった厳しい批判もあるようです。しかし、今までの医師・患者関係からみれば、これは画期的なことで、これもセミナー外来と言えるのではないでしょうか。残念ながら我が京都では未だこのようなことは聞いたことがありません。どうやらこればかりは東京に先を越されたようで、残念です。でも私自身は年齢のことはおくとしても、患者さんを前にしての自分を反省すると、とてもこのような難しいことは出来そうにありません。何方か我こそははと思われる方が始められるきっかけになればと思い、ご紹介しました。

 

 

 
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