2008.3.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  58. やはり聴き取れない
 

 

 私がこのホームページに耳が遠くなって、補聴器を付けても音楽を楽しめない、ことを何度も書いた(No.5, No.18, No.23, No.37, No.53)のを読まれた音響器メーカーから、これなら聴き取れるはず、と補助装置を次々と届けていただきました。これらは補聴器ではなくいろんな形のイヤーホーンです。みな大変好意的で「試聴器ですが、しばらくご自由にお使いください」と言って送ってきたり、持って来て置いて行かれたりしています。

 その度に、私は今度こそはと大きな期待を持ってその新しい装置を試みるのです。DVDでオーケストラやオペラをかけて一生懸命に耳をすませて聞き入りました。初めは大きな期待を持って聞くせいか、「うん、今の補聴器より少しよいかな。これならまた音楽の DVD 集めをしに十字屋へいってみるか」と一瞬思うのです。でもそれはどうやら期待倒れのようです。新しい装置にはそれぞれ特別の工夫をしたと言う、但し書きがついていてもっともらしいのですが、結局は音量の点を除けば今使っている音楽用の補聴器の上に出ることはできないようです。音量の点というのは、私が出来るだけよく聴きとろうとすると、周りの者が音が大きすぎると、テレビなどのボリュームを絞ってしまうのです。

 この状態で、招待を受けて千葉での国際シンポジュウムに参加しました。講演はスライドを見ながら何とか理解することができましたが、討論になるともう駄目です。私も何か発言したいのですが、その議論は先に出たとか、私の発言にさらに質問をされても、聞き取れないだろうと思うと、結局黙って座っているより仕方がなかったのです。去年の夏にはもう少しよく聞き取れたように思えるのですが。

 日常の会話は何とか聞き取れているのに、どうやら外国語も音楽と同じように、何時も聴いて慣れていないとだんだんと聴き取れなくなるのかな、と思ったのです。もうひとつおまけは、私が自分の講演のなかで、共同研究者の中国の友人の年令を紹介する時に「私は 87 歳で彼は私の 1 歳下」と言った途端に会場は「わっ」という笑いに包まれてしまったのです。やはり学会に出るのにふさわしい歳ではなかったようです。

 こうして京都への帰り道の新幹線のなかで、考えたのです。私がこの歳まで元気でいられるのは、案外耳が不自由なせいかも知れない。もし私の耳が若い時と同じように聞こえていたら、今頃でももっと忙しく走り回って、会議や講演にでて、結局は体が持たないで、へたばっているだろう。耳が遠いせいで、自然に活動が制約され、それで何とか体が持っている、のだと考えることにしよう。

 でもまだ何となく未練があるのです。近日に「オペラの夕べ」に招待されているので、もう一度だけ、オペラが楽しめるかどうか、出かけて試してみるつもりです。本物を現場で聞けば DVD とは違うかも知れない、というはかない夢を胸に。

 ここまで書いて、補聴器の電池がなくなってきたので、久しぶりになじみの補聴器屋さんに行きました。この原稿をプリントしたものを渡して私の近況など話しました。そうしたら「少し値が張るのでどうかと思いますが、これを一度試してみられますか。皆さん、これは遠くの話もよく聞き取れると言われます」と新しい補聴器を棚から出してきてくれました。「それは是非試させて欲しい」と私用に調整して貸してもらったのです。

 確かに今までのより、音量も十分でよく聴こえますが、ざわざわという雑音も一緒に聴こえます。ふと気がついて、手のひらでウサギの耳のように後ろから覆ってみると、雑音が消えて相手の話がすっきりと聴き取れます。そうだ今の補聴器は耳たぶも耳穴も無視している、これを補わないと、補聴器の能力だけをいくら工夫しても、普通の聴き取りは出来ないはずだ、と気付ました。補聴器を見ると音を受ける穴は上を向いていました。そうだ今度あの補聴器屋さんに行ったときに提案してやろう、といま元気付いているところです。

 

 

 
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