2007.12.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  55. 何時まで文化周辺国でいるのか
 

 

 私が名誉会員である日本放射線影響学会ではこの 11 月に 50 回の大会を千葉で開催しました。その大会長の企画で「日本の放射線影響研究を顧みて」というランチセションがもうけられ、古い会員である私に講演の役がまわってきました。そこで私が放射線生物学を始めた 50 余年前を思い出しながら、学問のあり方を考えてみました。

 我が国は世界で唯一の原爆被爆国であるにもかかわらず、戦後は米国の占領下にあったため、原爆の影響に関する研究はもとより、放射線に関する研究も医療に関するもののほかは、タブーになっていました。1952 年に平和条約が結ばれて我が国も本当の意味での独立国になりました。そこへ 1959 年 3 月まぐろ漁船の第五福竜丸がビキニ環礁での米国の水爆実験による放射性降下物(ゆわゆる死の灰)を浴びて焼津に帰港して大騒ぎが始まったのです。この騒ぎに対応して文部省(当時)は直ちに予備費から科学研究費を日本学術会議特別委員会に支出し、それ以後 1968 年までこの研究費が支出されたのです。また原子力についても 1955 年に原子力基本法が成立し、同じ年に国立遺伝学研究所に放射線遺伝をあつかう変異遺伝部が新設されました。そこに集まったのが、京大で植物の変異育種を研究していた故松村清二部長と物理の近藤宗平、医学の私の両室長でした。1957 年には放射線医学総合研究所(放医研)が設立され、我が国の体制も少しずつ整ってきました。

 しかし、放射線生物学としては、原爆開発と並行してその生物影響の研究を大規模に進めてきた米国に比べて、我が国には殆ど何もありません。例えば 1958 年に細胞化学シンポジュウムが初めてそのテーマに「細胞の放射線生物学」を取り上げ、私もその演者の一人に選ばれましたが、今では広く使われている培養系も私たちの組織培養を使ったものが唯一の発表でした。1955 年には既に米国のPuck らが、細胞培養の技術を開発し、翌 56 年にはHeLa 細胞を使った見事な X 線による線量生存率曲線を発表していました。しかし、当時の私たちには細胞培養は大変難しく、成功したのはその後放医研を経て京大に来てしばらくしてからでした。またα線源を使って細胞質だけを照射する技術を見て、ストロンチュウムを線源にしてマイクロビームを作るべく苦心をしましたが、数ミリのものしか出来ませんでした。今では加速器を使ったマイクロビームが活用されていることを考えると今昔の感に堪えません。

 でもそれから 10 年経って、1968 年に私がアメリカの研究者と手を組んで京都で放射線生物学について初めての日米セミナーを開催することが出来ました。それを医学書院から英文で発行したときには、これで日本もやっと世界のレベルに追いついたと一息ついたのです。その後欧米の同僚の研究者を訪ねると、その本棚に私たちの本がのっているのをみて、内心嬉しかったことを思い出します。

 その後放医研では粒子線治療に力を入れてこられましたが、これは何と言ってもきわめて高価な装置を必要とします。我々大学人は頭脳で勝負をするべきだと考えました。私はこれを「貧乏人のサイクロトロン計画」と名づけたのです。この分野では世界と共同もし、また競争もしました。化学的な方法はなかなか期待通りには進まず、ようやく物理的な方法であるハイパーサーミアだけが実用化に成功しました。しかし、これは欧米では未開発とみなされ、広く普及するに至っていません。そのせいかわが国でもこれを疑問視する人がすくなくありません。

 こうした私には今年の 3 月に出版された平川祐弘著「和魂洋才の系譜 上・下」(平凡社ライブラリー)が心に沁みるのです。これは森鴎外を中心にして明治時代の人々が如何に西洋の衝撃を受け止めたかを論じたものです。それを私は次のように「西洋文明受容の日中比較」として論じてみたいと思います。

 中国がアジアにおいてはずっと中心文化の国でした。例えば明朝はキリスト教の宣教師を、中国の聖人の教えを学びに来たものとして受け入れた。従ってそこでは永らく「漢魂洋才」には抵抗があった。これに対して周辺文化の国日本では平安朝の「和魂漢才」から幕末以降の「和魂洋才」へと続いている。同じ 16 世紀後半のキリシタンも新しい教えとして受け入れた。こうしてうまく西洋の科学技術を受け入れてきたが、さてこの千年つづいた周辺文化の国の流れから、逃れることが出来ているでしょうか。放射線防護についても、私は 1988 年頃から 1996 年頃まで原子力安全研究協会を中心にして日本放射線防護委員会(仮称)を作るべく奔走しましたが、最後には既存の組織と重複すると言って拒否されたのです。でも既存の組織は国際機関の勧告を如何に受け入れるかを論じるところで、決して我が国としての科学者の総意を示すものではありません。最近の政治の分野でも国連が決めた事なら、自衛隊の海外派遣も可、という主張にも、文化周辺国の香りを感じませんか。私たちが進めてきたがん温熱療法についても、既に述べたような理由から同じ流れを感じます。

 最後にこの欄に本年 6 月に「想像の世界に遊ぶ」で紹介したEinstein の言葉;「Imagination(想像)こそ知識より大切である」を紹介して、これによって文化周辺国から一日も早く本当の意味で独立してほしいと訴え、私の思い出話を閉じました。

 

 

 
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