2007.5.1
 
八十路のつぶやき
 
菅 原  努
  48. 結婚60年
 

 

 私達夫婦は今年の4月で丁度結婚して満60年になりました。10年前には孫まで含めた家族12人が、丁度50年目に当たる日に有馬温泉の旅館に集まり、一泊して金婚式を祝いました。私の両親も、家内の両親も金婚式を祝った覚えがありますから、これで私達も親と同じになったと喜んだのでした。次は60年のダイアモンド婚だがそれまではとても生きられないだろうと思っていたのです。それだけ期待と楽しみが大きかったのですが、実際にその時になってみると10年の間の変化は大きく、やっと家族の都合のつく5月の連休に昼食会を持つのが精一杯のところです。

 人生50年の頃と違い、人生80年いや私達の場合はそれを超えて90年に近くなってくると、一組の夫婦の関係も一本調子ではなく大きなうねりのようなものがあるのを感じます。今日はそれをマクロ(大きな変化だけに注目して考える)の目で見てみようと思います。

 私達が結婚した当時はまだ戦後の混乱が解け切れていない1947年(昭和22年)4月でした。しかも私は結婚と二度目の大学生の生活を同時に始めたのです。昼は学生、夜は医者のアルバイトという綱渡りのような生活で、初めは両親の借りた家の一部屋、2年目は知人の家を借り、そこを1年で出なければならなくなり、家内の両親の家の一間を借りることで何とか部屋代だけは払わずに済むことでやっと成り立ったと言う生活状況でした。こんな細かい事を書いているときりがないので、兎に角出発点は裸一貫であったということです。私は26歳、家内は18歳で、「兎に角何もないが二人で人生を切り開いていくのだ。一緒にやってくれるか」という合意の上での出発でした。

 29歳で三重県立大学に職を得てようやくアルバイトから月給にかわり、やっと人並になれたのです。その後三島の遺伝学研究所、千葉の放射線医学総合研究所と転々とし、40歳で母校の京大に帰って来ました。京大では新しい教室作りで大変でした。ここまでの夫婦関係では私の強引なリードで、家内は専ら内助の功と言う形でした。時々飲みすぎて二日酔いで休む私の言い訳に苦労したと今でも言っています。でも京都に来てからは家内もそのうちに中学校のPTAの副会長を手はじめに、地区の民生委員に任命され、すっかり地域の顔役(?)的な存在になってきました。町を二人で歩くと、何人か会釈をする人があり、それは専ら家内に対してでした。

 ここまでの夫唱婦随が少しずつ変ってきたのは、私が63歳で公務員を辞めてからです。でもそれは普通に考えられる亭主が家でごろごろしているからと言うのとは違います。私は退職後すぐに個人の事務所を持つことにし、そこへ毎日出勤しました。我が家の方も、幸い隣の地所が買えたので、そこに部屋を建て増し、私の書斎や書庫も作りました。そこまでは共同作業で、一緒に新しい生活をよろこんでいました。でもその間にだんだんと夫婦のあいだのバランスが狂ってきたようです。家内に対して何かやたらに腹が立つことがありました。ただ私はその不満を内緒の手紙に書くことで、慰めていたのです。その手紙は誰にも見せず、私が死んだら家内に見せるように遺言しようと思ってしまったままです。でもそれで気持ちが落ち着いて家庭に波乱を起さずにすみました。何に腹を立て、何を書いたか今では何も覚えていません。多分ウエイトが段々家内のほうに傾きつつあった所為かも知れません

 そのうちに私も歳をとり、次々と病気をして体力の衰えを感じるようになると、今度はバランスがはっきりと家内の方に傾きました。よく友人と一緒に海外旅行なども楽しみましたが、いつも家内が頼りでした。私は年にかかわらず学会や財団の仕事があり、定年後も経済的にも問題はありませんので、それ以外は総て家内にまかせて安穏としておれると安心して、これで老後も安泰と思っていました。

 この家内が、私が80歳を過ぎたころから何だかおかしくなってきたのです。先ず得意だった料理の数が減ってきました。気がつくとこった料理は勿論、すき焼きや沖すきのような色んな物を一緒に焼いたり煮たりというものを永らく食べた事がありません。そのうえよく物忘れをするようになりました。こうして物忘れの老人病がはじまったのです。本人はそのつもりはなくとも、私か誰かが蔭で支えないと日常生活に支障が出るようになってきました。私も昨年腹部大動脈瘤が見付かり、無理の出来ない身体になりました。私が独りで家内の世話をしていると、これは正に老老介護です。無理をすると共倒れになります。でも家内も出来るだけは自立した生活をした方がよいでしょう。しかし、独りでは何が起こるか起すか分らないという不安もあります。それを覚悟で、私は老人ホーム、家内は主に自宅という変則的な生活をしています。これは私が全く予測をしなかった状況です。でもこれは何も私たちだけの事ではないようです、この間まで元気にしていた同級生に暫くぶりで会うと、何となく元気がないので訊ねてみると、奥さんが転んで骨を折って動けなくなり、食事のことなど大変なのだ、と聞かされ、人生90年になると大変だなあと、今さらのように感じました。

 最後に、私が知る家内の心境を述べます。家内は形の上では専業主婦を通してきました。私が一番心配したのはそのことでした。自分の人生にとって専業主婦とは何だったかという疑問と不満を持っていないかということです。でも話してみると、私と一緒にいろんな土地、職場を次々と経験したことは人生を豊かにした。その後京都では民生委員をすることで、世間を広く知り、多くの知人を得ることが出来た。最後には自分達の努力でこうしてゆとりのある我が家を持てた、と満足げだったので、ほっとしたのです。

 ここでは、他の事は無視して、夫婦の関係からだけわが人生を分析してみました。そのバランスはシーソーのように揺れ動くもので、そのゆれには思いがけないものもある、これが今のところの私の結論です。結局人生いろいろですかなあ。

 

 

 
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