2000.6.5

 
   
 

16.放射線防護の考えはどのようにして始まったか:
   国際放射線防護委員会ICRPの設立から直線性まで

 

 

 このシリーズの初めの頃に56などでお話しましたように、今世紀の初めにX線を使った時に見られる傷害をX線によるとは考えず諸説紛々としていたのですが、やがてそれが放射線そのものの作用であることがはっきりしてきました。そうしてその傷害を避ける為に放射線を不要に浴びないようにという勧告が出されたのはX線が発見されてから20年経った1915年のことでした。しかし放射線を扱う職場では全く放射線を受けないというわけにはいかず、一体どれくらいまでなら大丈夫なのかを決めるのは決して簡単ではありません。結局厳密に言うと今でもその決め方で議論が尽きないとも言えます。

 文献上では1927年にMitchelと言う人が当時のフイルムが感光しない程度の線量、当時の単位で1日0.2rレントゲン)までなら大丈夫と発表しました。この点で面白いのはX線を発見したレントゲン博士はフイルムを使ってX線を検出していましたので、フイルムを大切にしていつも鉛箱にいれてX線を受けないようにしまっていたので、それと一緒にX線から離れていた自分も放射線障害になることはありませんでした。これにたいして放射性物質を直接に取り扱っていたキュリー夫人は最後に放射線障害に悩ませれることになったのです。ともあれ、その後ヨーロッパを中心とするX線・ラジュウム防護委員会というのが学会に作られ多くの放射線取り扱い施設の実体調査の結果に基づいて1936年に1日0.2rを耐容量として勧告しました。当時は皮膚の傷害が対象でしたがその後X線の電圧が上がると骨髄傷害も問題になりこれを1日0.1rに下げました。

 その後1950年に第二次世界大戦後はじめてこの委員会が開かれ、この間に原子力が開発されたことを受けて名前も今の国際放射線防護委員会ICRPに改め、世界に対して勧告を出すことになったのです。その頃私は三重県立医科大学におり1952年にRadiologyという雑誌に載った1950年勧告の記事を読んで病院の放射線科の治療室の壁に鉛を貼って遮蔽するように提案しましたが、誰も取り上げてくれませんでした。そこへ起こったのが第五福竜丸というまぐろ漁船がアメリカのビキニ環礁での水爆実験の死の灰(放射性の降下物)を受けるという事件です。それは1954年のことでした。それから急に我が国では放射線が騒がれるようになったのです。ICRPの勧告もおくればせながら我が国でも取り上げられるようになりました。

 さて1950年のICRP勧告に戻りましょう。アメリカでは原爆の開発と平行して大規模な動物実験が行われたようです。いろんな動物にいろんな線量率(1日当たりの線量)での連続照射を行い血液や組織への影響を調べたのです。そこで最も敏感な反応に注目しそれが見られる最低の線量率を決めました。これを基に、限られた実験で未だ幾らかの不確実さもあることを考慮し、呼び方もそれまでの耐容線量を最大許容線量と変えそれを1日0.5Rとしました。この時にがんや遺伝も検討はしましたが資料不足で取り上げられませんでした。これがノーベル賞学者のマラー博士を中心とする遺伝学者の反撃を受けることになり遺伝的影響、白血病、寿命短縮を中心とする1958年勧告に発展したのです。

 この1958年勧告では、上に述べたように3つの全く違ったように見える現象が取り上げられているように見えますが、実はその基本にはすべて放射線による突然変異が共通して仮定されているのです。遺伝的影響を当然としてあとの2つはどうなのでしょうか。白血病はがんの一種ですから当然体細胞突然変異が考えられます。放射線による寿命の短縮は動物実験のデータとそれを裏づけるものとして米国の放射線科医の寿命が短いという論文があり、これも体細胞突然変異説がその説明として有力だったのです。突然変異を基本におくとそれと放射線との関係の特徴として影響は線量に直線的に比例すること、また放射線の当たり方によらず全集積線量に比例するが認められることになります。こうして

 個人の許容線量:5(N-18)レム  
 集団の遺伝許容線量:30年間に5レム

が勧告されたのです。

 その後寿命短縮はデータ解釈の誤りが明らかになり考慮からはずされ、また遺伝的影響も人では予想より小さいと考えられるようになり重点からはずされ、またリスクという新しい概念が導入されたり大きく変遷していますが、あまり長くなったので以下は次回にします。ただ大切なことはここで取り入れられた線量に対して直線的に影響があるという考えかたはこれ以来延々と続いているということです。

 

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