2014.12.1
 
Editorial (環境と健康Vol.27 No. 4より)

少子高齢社会と子育て


内海博司

 

 

 本誌 27 巻 1 号で「少子高齢社会の生き甲斐」がとりあげられたが、ここでは社会環境の変化に伴う育児の見直しを取り上げる。この半世紀前までは、60 歳以上の高齢者は希だとして、還暦の祝い、定年制や年金制度など、人生 60 年を前提とした家族行事や社会・経済制度などを構築して、老人を大切にし、親孝行などを美徳とする文化を育んできた。しかし現在では 90 歳代の両親を 70 歳代の子どもが面倒を見るのが現実となり、いろいろな問題が出てきている。結婚していない子どもが会社を辞め収入も無くなり、親の面倒を見ていて親子が餓死したというニュースは、家族制度の変化に対応した社会制度ができていないことの現れである。徘徊症状のある認知症の 91 歳の夫が列車にひかれたのは、同年齢の妻が見ていなかったからだとして、老齢の妻に罰金刑を言い渡す判決が出た。この判決や、DNA 鑑定で親子関係がないことが判明しても、法的には親子であるとの判決を下した裁判の例を知ると、まだ子どもの幸せより家を重んじる時代遅れの社会規範がまかり通っているようである。

 高齢化と少子化による人手不足の解消の切り札の一つとして、女性参画社会が標榜されている。それ自体は悪くないが、男女平等という考えが始まって1 世紀ほどしか経っていないだけに、それを支える社会制度は整っていない。制度を整えずに推し進めると、益々晩婚化による少子化が進むと杞憂される。高齢社会がきたからといって、ヒトの人生の時間軸が一様に引き延ばされたのではない。生物進化の時間軸から見て、生殖に関わる人体の設計図(受精に適した精子や卵子を生産できる年齢)は数十万年のオーダーでは書き換えられない。女性が 30 代後半から妊娠しにくくなる主要な原因として「卵子の老化とダウン症候群」のことが広く知られているが、最近の研究によると、精子も老化の影響を受けることが明らかになった。専門家は男女とも 35 歳が「曲がり角」となる可能性を指摘している。アメリカのように年齢を雇用の物差しにしないエイジ・ディスクリミネーション(Age Discrimination)法を作り、元気な高齢者も働けるようにすれば、人手不足も解消され、少子化の急速な進行も防げると期待される。

 文明が進んだ国に見られる現象だが、人々の生きる目標が子育てから離れ、個人的な快適な生活や物質的幸福や栄誉を求めて競い合っている。核家族や母子家庭では、子育ての知恵を教わる環境が失われて、幼児への親の虐待や子殺しなど、目を覆いたくなるようなニュースにもかかわらず、政府や地域社会も幼い命を救えないでいる。ヒト社会は、教育によって子どもの多様性と可塑性を引き出し発展してきた。現状の少子高齢社会の問題の解決には、子ども達に夢のある教育を施し、彼らの力に頼るしかない。しかしながら本誌 27 巻 1 号のサロン談義 12「現在の教育問題を考える」で問題提起されたように、「少子化」と「核家族化」による「家庭の教育力」の低下と、里山・里海の崩壊による「地域の教育力」の低下は、世界一子どもを大切にしてきた日本の伝統的な教育環境を破壊しつつある。しかし、この地域と家庭がそれぞれ担ってきた「教育力」が、ヒト社会に必要なコミュニケーション能力を養い、子どもの脳や体の発達を育んできたのである。幼児期に愛情溢れる家庭で育った子どもに較べ、いじめなどを受けた子どもの脳や体の発育が妨げられるという報告や、幼児期の食事が嗜好を決め、成人病の予備軍となるという報告もあり、幼児期の食育の重要性や愛情の重要性が注目されている。

 既に触れたが女性の社会進出を勧める政策として、保育園(児童福祉法上の名称は保育所)や幼稚園の「数」を問題にするだけでは、幼児期の重要性が認識されていない。インターネットで気軽に幼児を引き受ける人達や、預けざるをえない親がいて、結局は幼児を虐待し、殺すという痛ましい事件さえ起こしている。我々の先祖が数百万年かけて培った「分かち合い」の精神で、共同の食事や育児をしていたと説く人類学者の意見に従うと、家庭や地域社会が担っていた「教育力」を肩代わりすべき新制度は、現在では国が担わなければならない。教育力を高めるために、単に 6・3・3 制の 6・3 を一貫教育にするような小手先の対応では、教育力の低下の解決にはならない。4 歳で聴覚、体性感覚、視覚の発達が止まるといわれる入学前の幼児に十分な基本的な教育を施さないと、小学校では遅すぎることになる。最新の幼児の脳発達の研究成果などを生かして、家庭や地域社会の「教育力」の低下を補うためには、義務教育の年齢を下げ、幼児教育の質自体も高める必要がある。

 国や地方行政が今以上に教育にお金をかけられないのであれば、高校や大学に費やしている公的資金を幼児教育に回せば良い。高校を義務教育の一環のようにみなす風潮となりつつあるが、小学校に入学する前の一番大切な基礎教育がなされないまま、現行のような__年齢だけを基準にしたトコロテン式で押し出される義務教育では、卒業しても得るべき学力も社会への適応性も身につけられない。このように現行の教育制度は、現在の社会変化に対応していないので、抜本的に見直す必要がある。高等教育制度は本来、ある資格を得たい、あることをより深く追求したいと考える自立した若者や社会人が入学して勉強・研究する教育機関である。そういう意味では、高等教育機関の学費は親兄弟が支払うのではなく、貧富の差無く全員奨学金で賄う制度を取り入れるべきであろう。当然受け取った奨学金は、卒業後に各自が支払ことになるので、学生は必死になって勉強するであろう。

 老人ホームをつくる場合でも、健康な老人らに自発的な育児や教育の場を与えられるように、保育園や幼稚園と併設することは、「必要とされたい、社会とつながりたい」というヒト本来の特性を生かした解決策だと考える。事実、老人ホームに併設された保育園や幼稚園は、子どもにとっても老人にとっても、生きる喜びや知恵の相乗効果があるとの報告がある。このような取り組みの利点は、我々の先祖が数百万年かけて培ったヒトの「分かち合い」の精神から生まれた「共同の食事や育児」を踏襲しているからだと考える。

 


(公財)体質研究会主任研究員、京都大学名誉教授(放射線生物学、放射線基礎医学)