2014.3.3
 
Editorial (環境と健康Vol.27 No. 1より)

少子高齢社会の生き甲斐


山岸秀夫

 

 

 先日テニスクラブでの試合待ちの時間に、昨秋に訪ねた岐阜県養老町の「養老の滝」を話題にしたところ、居酒屋チェーンの「養老乃滝」と間違われた。それもそのはず、働けど働けど暮らしに追われて、老父の楽しみの晩酌の酒も買えない不甲斐無さを嘆く、親孝行息子の前で、「滝の水がお酒になった」という「養老孝子伝説」(古今著聞集、鎌倉時代)は、私ども国民学校世代の「修身」の教材であって、「君に忠」と並んで「親に孝」は「忠孝」の精神として教え込まれた。この孝行息子にとっては、老父の喜ぶ晩酌の酒を汲みに滝に行くのが「生き甲斐」だったのかもしれない。しかし第2 次世界大戦の敗戦後、「君に忠」の否定と共に「親に孝」も忘れ去られてしまった。

 果たして少子高齢社会では、「親に孝」は死語となったのであろうか? ポール・ゴーギャンの絵画に刻まれた、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の全てには答えられないが、少なくとも「われわれは一人では生きて行けない者である」と答えることは出来よう。養老の孝行息子も、親の庇護が無ければ赤子から人間へと成人できなかった。人間の一生の「生病老死」の全ての過程に親以外にも他者が関わり、このサイクルが繰り返されて、親から子へと「いのち」が継承されている。現在では、育児・介護・医療の全ての分野において、他者としての社会的関与が高められている。

 このような視点から少子高齢社会の問題を考えてみることにする。1945 年の敗戦の灰燼の中から驚異的な経済復興を果たし、1975 年に経済大国となったわが国では、人々の生活水準が飛躍的に向上した。その後も、仕事と生活の利便性を求めて、人々は農漁村(地方)から都会(中央)へと流動し、都会では核家族化が進行し、徐々に村落共同体で見られていた様な、地域社会(コミュニティ)の絆を失うことになった。結果として、仕事に追われる現役世代の女性一人あたりの生涯出生率が低下する一方、この半世紀の間に、日本人の平均寿命は 16 歳も延び、世界でも有数の長寿国になると共に少子高齢社会となった。現在は 65 歳以上の高齢者1 人に対して、現役世代が 3 人の割合となっている。日本人の平均寿命の延伸は、医療保険、介護保険の制度整備や保健衛生環境の向上に負うところが多い。しかし近代科学技術の進歩による生産効率の上昇を見込んでも、減少する現役世代の労働人口が、多数の高齢者を支える経済成長がいつまでも続く筈がない。

 しかも経済成長政策の下で現在進められている、無制限な地球資源の開発競争は、発展途上国での自然と生物の多様性を壊滅させ、深刻な地球環境の激変をもたらすに違いない。さらにその開発競争の中で、人々の間に貧富の差が生じ、相互扶助の人々の絆が失われつつある。その上、わが国は数枚の地殻プレートの接点に位置し、これまでにも地震や津波や火山爆発など、数々の自然災害に遭遇してきた。3.11 の東日本大震災は自然災害に重なった、科学万能の安全神話による人災であった。働き手を失った、災害地の高齢社会の打撃は深刻である。自然の恩恵と共にそのリスクの中で生きていることを、私どもに実感させた大震災であった。今や日本のような地球上の一部で起きた事件も、その情報が国境を越えてインターネットで拡がり、経済的にも世界全体に影響を及ぼすのである。それでも国内外から無償の援助が寄せられ、地球規模で支え合う人々の絆に救いを覚えた。

 労働経済学者の橘木俊詔氏は「幸せの経済学」(岩波書店、2013)の中で、少子高齢社会の課題として、経済成長社会から定常型経済社会への転換を提唱し、幸せな「働き方、遊び方」を生き甲斐とするような社会保障制度の充実が重要であるとされている。

 かつて自然人類学者の西田利貞氏は、本誌関連シリーズ「いのちの科学を語る」第4巻「チンパンジーの社会」(東方出版、2008)のシナリオの中で、「反文明の時代」と題して、(1)少子高齢化歓迎、(2)発展途上国を犠牲にする飽食日本、(3)亡国の発明:シュレッダーとウォシュレットなど、数々の文明批判を展開して、「持続可能な節約社会」への道を提唱され、「他人に迷惑をかけないで楽しく生きること」に生き甲斐を求められた。確かに地球生物はすべて食物連鎖で繋がり、リスクに耐えて譲り合って生きているのであって、人間だけを例外とするのは問題であろう。

 「生活機能病」の予防を提唱されている整形医学者の山室隆夫氏は、本誌関連シリーズ「共に生きる科学」の「不老長寿を語る」(ミネルヴァ書房、2012)の中で、「平均寿命」でなく、人が健康で自立して生活できる「健康寿命」の延伸に注目して、高齢者の定義を 75 歳以上に引き上げて、自立した健康な高齢者の生産活動や社会活動への参加を促して労働人口を増やし、子育て世代を援助することを提唱されている。ここでは、「子どもたちの世代のために働く」という連帯感が高齢者の生き甲斐とされている。人それぞれに様々な生き甲斐がある。現役世代の生き甲斐は、主として子育てと職場労働であり、社会貢献の充実感であろう。しかし生涯現役の人生を送れる人は少ない。若者もやがて現役を離れて高齢者となる。「生病老死」(注1) は全ての人がリスクを背負って通る道である。現在の高齢者は、若者の将来の生きた教材である。宗教家の奈良泰明氏は、本誌 26 巻 3 号の特集「高齢者のいのちの輝き」の中で、「年齢相応の社会貢献は、その気になれば何時でも出来ることで、今という時間を自分なりに充実感を持って過ごすこと」と語っておられる。健康で自立して長寿を楽しむ高齢者の姿は、若者の励みとなる。若者と高齢者が支え合って、「生病老死」のサイクルを持続できる社会の構築のためには、新しい「文明の知識と文化の知恵」が求められている。そこでは、経済成長社会の「一人勝ち」でなく、定常経済社会の「他者のために役立つ」ことが生き甲斐として普遍化し、人々の絆が強まるであろう。その未来の絆は、家庭や地域や国家の枠組みを越えて、個人と個人とがインターネットで結ばれるものかもしれないが、誰もが「生まれてきてよかった、生きてきてよかった」(永六輔:「大往生」より)と思えるような尊厳ある人生で、「生病老死」のサイクルを繋ぎたいものである。

 

注1) 一般には「生老病死」とされるが、その生起の順から「老」と「病」を入れ換えている。

 


(公財)体質研究会主任研究員、京都大学名誉教授(分子遺伝学、免疫学)