2004.9.1
 
Books (環境と健康Vol.17 No. 4より)
日本科学技術ジャーナリスト会議編
科学シャーナリズムの世界:真実に迫り、明日をひらく

(株)化学同人 ¥2,400+税
2004年7月10日発行
ISBN4-7598-0974-0 C0040
 



 ジャーナリストというとすぐに新聞記者を思い浮かべる。そして次々と不満が出てくる。研究者の話を正しく伝えない。細胞かせいぜい動物での実験結果をさも明日にでも実際の治療に役立つかのように報じる。一体新聞記事は言いっぱなしで、科学論文のような仲間による審査がないのはけしからん。研究者や研究政策にたいして、単にその内容を伝えるだけでなく、批判し評価することが必要ではないか。こんな日ごろの不満を持ちながら、しかし他方では読まれるものの書き方について何かヒントが得られるかもしれないという欲もあって、新刊の棚からこの本を取ったのです。

 さすがに科学技術ジャーナリスト会議の面々が分担執筆しているだけあって、上にあげたような私の疑問はもとより、さらに突っ込んだ議論を展開しています。近頃珍しい自己批判も含めた前向きの本で、感心しました。一番大切なことはジャーリストは科学者と市民との間に立って、それを噛み砕いて分かり易く伝えるというだけではなく、中立的な立場での批判、評価を怠ってはならない、という点ではないかと受け止めました。ことに最近の生命科学技術の進歩とその活用のはらむ多くの問題に対して単に現状を伝えるだけでなく、市民の立場からの批判が必要だと思うのに、それが殆どなされていないことを憂えてきた私にとって、この本には大いに力づけられました。

 大学が新しい独立行政法人になって、それが積極的に広報に務めるのはよいのですが、そのために今まで新聞社などに属していたジャーナリストが、大学の広報にかかわる例が増えてきています。そのことの含む問題点、大学の活動ことにそこでの研究成果を分かり易く伝えるのはよいとして、それでジャーナリストの批判精神はどうなるのか、という指摘は貴重なものだと思います。

 日本では科学雑誌が振るいませんが、それをどうすればよいかについて、外国での成功例は、私の知らないものを含め大いに参考になりました。New Scientistのようなものでも、表紙の出来不出来で売れ行きが左右されるという説明に、驚きまた感心さされました。

 研究者も市民も、文句ばかり言わないで、この本にあるような未来を見つめたジャーナリストの努力と進歩を支えることで、我が国の科学と技術とが本当に社会と共に歩むものになっていくのを楽しみながらその活動を見守ろうではありませんか。

 折角の機会なので、初めの方にある「科学記事が苦戦する理由」から抜書きしてみます。

“その第一は、科学と新聞は、もともとなじみが悪いことがあげられるだろう。新聞には「人を描け」という原則がある。記者になりたての新人は、地方の支局などで徹底的にこれを教え込まれる。だれかの家に庭に珍しいバラが咲いたとき、そのバラが植物学上でどれだけ貴重か、ほかのバラと構造がどう違うのかを詳しく書いても、その記事は失格。支局のデスク、つまり原稿の責任者からは、「バラのことをくどくど書くな。それを育てた人がどんな人物か、その苦心談を書け」といわれる。(中略)ところが、科学は本来、だれがやっても同じ結果がでる再現性、客観性を求めるものだ。科学であろうとすればするほど、そこから特定の人の存在感は薄れていく。(中略)
 新聞に科学を書くことが苦しいもう一つの理由は、何といっても科学はわかりにくいことだ。これは相当に困ったことだ。日本の新聞は、あらゆる人に読んでもらうことを目指しているので、わかりにくい記事はそれだけでもう落第だ。科学に興味のある人、科学知識をもともともっている人だけに読んでもらおうという科学ニュースのつくり方は、現状ではありえない。みんなが読んで、みんながわかる科学記事が求められる。”

(Tom)