2001.1.1
 
Editorial

国際協力における文化の理解
菅原 努
 

 

 今年は長崎にオランダとの交流のための窓が開かれてから丁度400年ということで、長崎を中心としていろんな行事が行われています。私も11月12日から15日まで長崎大学が中心として行われた学術集会に参加させてもらいました。そこでは日蘭を例として国際交流の重要性が何度も話されましたが、その中で特に私の記憶に残ったのはゲストとしてよばれたアメリカのTrosko博士がその挨拶のなかで述べた次の言葉です。それは「科学は世界に共通で相互理解は難しくないが、文化の違いは価値観の違いを生むのでそれを正しく理解し受け入れることが大切であり、またそれが如何に難しいか」というものでした。彼は数年前に広島にある日米共同運営の(財)放射線影響研究所に研究担当理事として滞在したことがあり、その時には勿論長崎にも何度も来ていますが、この話は彼のその時の経験に基づく切実な気持ちを表したものと思います。

 これは11月12日の長崎大学長の招宴でのことでしたが、私はその後14、15日と行われた「老化と発がん、Aging and Carcinogenesis」というシンポジュウムに座長として招かれて出席しました。14日の夜に歓迎の懇親会が催されましたが、その時に何か一言挨拶をするように依頼されさて何を話したものか少しとまどいました。その時に思い出したのが先のTrosko博士の言葉でした。私は丁度出来たばかりの中国の高自然放射線地域についての日中共同研究の英文報告書(本誌トピックスに記載のもの)を持っていましたので、それを示して次のような話をしました。「科学研究での国際協力は極めて大切なことですが、それには単に科学の交流だけでなく、相互にその文化の違いを越えてよく理解しあうことが大切だと思います。私は最近この10年間の共同研究の成果をまとめた報告書を完成しましたが、その時に一番大切だと感じたものが12日の夜長崎大学長の招宴でそこに居られるTrosko博士が言われた文化、彼はそれは価値の違いを生むと言いましたが、その違いを互いに良く理解して共同作業をすることです。実はその違いは国と国との間だけでなく、専門分野、物理とか医学とか生物学との間にもあり、それを乗り越えないと、この様な一冊の報告書に纏めることが出来ないのです。日蘭は既に400年の歴史がありますが、私達の交流は正に今始まったばかりですので、これから科学の交流はもとよりですが、その間にお互いの文化について理解を深める努力をしようではありませんか。今日がその第一歩になることを期待しています。その意味でこの出来たばかりの報告書をTrosko博士に差し上げます。」そして皆の前で彼にその報告書を進呈しました。

 ところがその週の末18日(土)に東京のサントリー美術館でたまたま「西洋の美・日本の華 サントリーコレクション」というのを見る機会がありました。それは正に絵画を中心にして、近代の西洋と日本とを比較した面 白い企画でした。主題を自然、都市風景、人間、空間、抽象、交流の6課題に分けて両者の異同を比較していました。例えば自然のなかで花と言えば西洋では花瓶に生けられたものが静物として中心ですが、日本画の花は多くが自然の生えたままのものであり、時には一枚の絵に四季いろいろの花が賑やかに描かれている、といった具合です。これは時間をも画面という空間のなかに取り込んでいることになります。もう一つ例を挙げましょう。遠近法や明暗法というのは、時間を停止させるだけでなく、画家の視点も一定の位置に固定させることによって初めて成立します。したがってルネスサンス期以降の西洋絵画は原則として一画面一視点だそうです。ところが有名な「洛中洛外図屏風」などを見ますと、画家達の目は自由に市内を動きまわっています。解説書によると、“西洋絵画においては、画家はいわば絶対者であって、不動の位置を占めて画面全体を支配する。それに対して日本では、描かれる町の方が主役であって、建物なり人々の姿なり、対象に応じて最も適当な場所に画家の方が出向いていくという形をとる、”とあります。

 この他に沢山の例が示されていて、そう言われてみると、私達は普段そうとは気付かずに当たり前と思っていることが、こんなにも西洋の感性とは違うのかというとを思い知らされました。そこでふと気が付いてみるとこの西洋絵画と日本の絵の違いは初めの方で述べたわれわれの中国高自然放射線地域研究の報告書作成の経過での私の経験と共通 するところがあるようです。初めこの報告はドイツの学術誌に掲載してもらう心算でドイツの友人と交渉しました。彼の曰く、「この報告は、線量測定、がん疫学、染色体研究の3篇にまとめよ。」ということでした。これに対して日中の研究者は「それはとても出来ない。多くの人がそれぞれに努力をし、それぞれにデータを作り上げたのだから」ということで、初め10以上あった論文をようやく8に纏めることで折り合いをつけたのでした。これは正に洛中洛外図だと今になって気が付いた次第です。ただ西洋の人がこれをそのように読みとってくれるかどうか、一寸気になりますが。