2003.4.22

 


菅原 努

 

27. 仲間が居れば救われる

 


 私は大分前に耳が聞こえなくなった話を書きました。あれから大分日が経ちましたが、自分の生活も大きく変わってきました。先ず新聞でラジオ欄を見なくなったことです。昔はFM放送の音楽番組、ことに午後7時過ぎからの名曲の時間は必ず目を通して、食後それを聞きながら夕刊などを読むのが習慣でしたが、いつの間にかラジオからも、CDからも遠ざかってしまっていました。聞くとがんがんするだけで、少しも楽しくないのです。それでも私にはまだ本を読む楽しみがあるので、前のように聞きながらよりみしろ熱中できてよいと自分に言い聞かせて納得しているのです。

 ところが先日ある友人から電話があったときに、この話をしたら「私も突発性難聴になってね、ピアノの音が急に割れだして驚いた」と言うではありませんか。これを聞いて私も実はほっとしたのです。音楽好きでピアノにこっていた彼でさえ音がまともに聞こえなくなってしまったのなら、私も諦めようと言うわけです。しかし考えてみるとこれはおかしいので、他人の不幸を見て自分も安心したということになります。これでは少々心が痛みます。

 これに対してそうではなく仲間と居れば救われることこそ大切だ、という見方があります。その点から言って、宗教は集団精神療法であると喝破したのは、なだいなださんです。彼の近著「神、この人間的なもの 岩波新書806」では、友人に託してそれを語っています。その友人は若いときに結核になり、当時では死の病として、それにどうして耐えるか一人で苦しんでいるときに、ある牧師さんが話を聞いてくれてただ祈りなさいと仲間を紹介してくれたのです。そしたら今までの苦しみが一度に消えて希望がわいてきた、というではありませんか。何もキリスト教の教義を聞いたわけでもなく、それを勉強したわけでもなく、ただ仲間と一緒に祈るというだけであった、というのです。これを彼は集団精神療法だというわけです。最近がん患者が集まって互いに話し合うということで、力付け合って治療しようという運動がありますが、それも正にこれではないでしょうか。

 若いときはいやでも仲間が居ますが、年を取るとうっかりすると独りぼっちになってしまうことがあります。よい仲間を持つことが元気な長寿を楽しむ一つの秘訣ではないでしょうか。それには互いに欲をなくして、助け合うことが大切です。

 ところが「それが実際には結構難しいのだ、みんなすぐ長になりたがる」とスカイクロスという誰でも出来るスポーツを開発しその普及につとめている仲間の一人、万井正人京大名誉教授が嘆いていました。スカイクロスで仲間ができ、組織が少し大きくなろうとすると、誰を長にするかでもめだすのです。年の甲ならAさん、経験から言うとBさん、人望のあるのはCさん、というようにみんなが長になりたがって仲間割れが始まります。だから当分大きな組織を作ることは諦めている、とかれは言います。

 そういえば教会も沢山の派に分かれていますね。仲間と居れば救われるが、その仲間をうまく保つことは難しいようです。