2002.12.1

 

2002年12月のトピックス

京都賞とフッド博士そしてシステム生物学

山岸秀夫
財団法人体質研究会 京都大学名誉教授


 

 京都賞はノーベル賞と違って、人類の科学の発展だけでなく、文明の発展や精神的な深化や高揚の面に著しく貢献した人々を受賞の対象としている。したがって基礎科学部門の他に,先端技術部門と思想・芸術部門が設けられている。そしてその理念として,陰と陽、明と暗,プラスとマイナスという二面的な世界の広がりを認識して,この両面のバランスのとれた発展に寄与し,新しい哲学的パラダイムを構築することをうたっている。

 実際には,受賞対象が広範囲にわたるため,毎回各部門では受賞対象分野を限定している。本年度第18回京都賞では先端技術部門で「バイオテクノロジー及びメディカルテクノロジー」を,基礎科学部門では「数理科学」を,思想芸術部門では「美術(絵画・彫刻・工芸・建築)」を対象分野とした。そしてそれぞれ,「DNA塩基と蛋白質構成アミノ酸の配列決定の自動化」に貢献した米国システム生物学研究所長のL.E.フッド博士,「新しい幾何学の展開」に貢献したフランス高等科学研究所のM.L.グロモフ教授と「自然と共存する現代建築の創造」に貢献した東京大学の安藤忠雄教授に授与された。

 本年11月10日に行われた授賞式の翌日の記念講演会では,フッド博士は生物学と技術を統合した新しいシステム生物学を立ち上げ,全人類が直面している課題を解決していく上での研究者の社会的責務を強調した。グロモフ教授は地球上での直線は地球の円周の一部であるというような身近な例を取り上げて,幾何学的対象への距離的概念の導入を説明し,バイオインフォーマティクスへの展開についても話された。安藤教授は中坊公平さんと組んで,近代文明の付けを背負って汚された瀬戸内海沿岸に植生を取り戻す運動など積極的な社会活動をされているが、講演の最後に出されたニューヨークの国際貿易センタービルのグランドゼロに、地球の円周の一部としての古墳公園を作り、全世界からの人々がその上に座って共に地球の未来を考える場にしてはどうかとの提案は聴衆に深い共感を与えたと思う。

 異なる部門に亘る記念講演会ではあったが,京都賞の目指す哲学的パラダイムの構築を促進する刺激剤となったと思う。

 記念講演会の翌日には3部門それぞれの受賞者を迎えたワークショップが催された。フッド博士を迎えたワークショップ「ゲノム生物学からシステム生物学へ」が京都大学の本庶佑教授,東京大学の榊佳之教授の企画で開かれた。

 私事に亘るが,フッド博士と初めて出会ったのは,1977年に故木村資生博士が企画された谷口シンポジウム「分子進化と分子多系」に共にシンポジストとして招待された席であった。フッド博士の初めての来日はバレリー夫人との新婚旅行をも兼ねていた。フッド博士は教育にも熱心で1975年には「真核生物の分子生物学」のタイトルの大学生を対象としたテキストブックも出版されていて,このシンポジウムでは免疫グロブリンの多重遺伝子族の進化について話された。しかし当時,利根川進博士の免疫グロブリン遺伝子の再編成の論文の発表直後のことであったので,免疫系の分子生物学の本命の業績での招待でなかったのが,ちょっぴり不満のようであった。

 今回の受賞も生物学の成果の実践に対する功績が評価された。博士の提唱するシステム生物学の今後の発展に期待したい。

 システム生物学は文部科学省のミレニアムプロジェクトの一環として科学研究費にも取り上げられ,2000年から5年計画で東京大学の_木利久教授を代表として「ゲノム情報科学」がスタートした。最近のサイエンス2002年10月25日号にもシステム生物学の特集が組まれている。ゲノムプロジェクトを引き継いだポストゲノム時代では,トランスクリプトーム(転写産物システム),プロテオーム(蛋白質システム),メタボローム(糖脂質,リポ蛋白,糖蛋白などの代謝産物システム)のデータベースの構築が急がれる。その上で多くの因子が絡み合ったシステムの解析には高速大量の情報処理を行う計算機科学が必須のものとなる。フッド博士のシステム生物学研究所では当面、1)高度好塩古細菌での太陽光エネルギーの転換システム,2)酵母菌における単糖類の利用システム,3)ウニの発生ネットワークシステムに焦点を絞っている。

 ワークショップの中では,京都大学の野間昭典教授が「心筋細胞の機能シミュレーション」の演題で心筋細胞の自働能に介入する種々の因子を組み込んだ数学モデルを提示されたが,今後各種薬物投与に対する科学的な基準作りに貢献するものと思われる。また理化学研究所神戸発生・再生科学総合研究センターの近藤滋博士は指紋のような複雑な波形を示す数理モデルを示され,そのモデルの中で想定される因子の実証に取り組まれているとのことで,具体的なシステム生物学の手応えを感じた。その他,慶應義塾大学の冨田勝教授,京都大学の金久実教授のグループの細胞機能のシミュレーションの試みも発表されたが,何れの細胞モデルにも生物としてのしなやかさ,可塑性が感じられた。

 実際,サイエンスの特集の中で取り上げられている酵母菌の106の転写制御因子が互いに制御し合うシステムは圧巻であり,ましてや量的パラメーターを組み込んだ場合には高度の計算機科学の助けなしでは、もはや生物学が語れない時代が来るものと思われる。フッド博士は夫人と一緒にシアトルでの地域教育の一環として,21世紀を荷う若者へのシステム生物学教育のための実験的17Eプログラムをスタートさせている。

 一方サイエンス特集の将来展望の中で,個々の生物に固有のシステムの研究から抽出されてくる,機械的なシステムとは一味違った普遍的な生物のシステムの存在が示唆されている。いわば生物を創造した神のシナリオであり,個々の生物はこのシナリオに偶然に発生したアドリブとして理解される日が来るのかもしれない。