2002.4.8, 4.15 revised
 

2002年4月のトピックス

エストニア見聞記

菅 原 努

 


 私が理事をしている財団法人日本フィルハーモニー交響楽団では今年創立45周年を記念してヨーロッパ公演を行うことになりました。その訪問先に珍しいエストニアが入ったのです。というのは、日本フィルの客員首席指揮者であるメーネ・ヤルヴィがエストニア生まれで、是非日本フィルを母国に紹介したいと熱望したからということです。エストニアという国には皆さんは余りなじみがないかも知れませんが、私や家内には古くからのアメリカの友人であるRein Kilksonさんというのがエストニアからの亡命者であると聞いていたから、名前だけは古いなじみがありました。そこでエストニア公演応援ツアーへの参加を申し込みました。周りの仲間にも声をかけ、京都の関係で3名、東京から1名旧制高校の同級生も加わり、他に日本全国からの参加があり総勢37名の大旅行団になりました。

 日本フィルの公演は大成功でしたが、ここでは皆さんになじみの少ないエストニアという国について、見たり聞いたりしてきたことをお話したいと思うのです。エストニアの人にとっても日本というと極東の遥かに遠い国で、最近経済的に大変発展した国で自動車やカメラなど優れた物を作っている、あとは矢張り富士山と芸者ぐらいしか思い浮かばないのではないでしょうか。というのがガイドをしてくれたタルト大学言語センターの日本語講師をしておられる宮野 恵理さんの言葉でした。兎に角面積は九州位で人口150万人の国に居る日本人は大使館員を含めて全部で僅か20人だということですから、日本との交流も少なく今後の相互交流が望まれると思います。私にとっても、皆さんにとっても同様で、エストニアといってもバルト三国の一つで、1991年にソ連の崩壊に乗じて独立を達成した新しい国という以外には殆ど知識がありませんでした。

 3月18日にコペンハーゲン経由で首都タリンにはいりました。寒いところだと聞いて心配していましたが、かすかに春の兆しがあってそれほどでもないと安心しましたが、それでも未だ川にも氷が張っていて矢張り北国だと実感させてくれました。バスでタリンからタルトを経て4日目にヨーロッパでも第四の湖でロシヤとの国境にあるペイプシ湖の横を通りましたが、湖に張った氷が湖岸に吹き寄せられているのを観て皆大喜びしました。タリンには中世の古い石畳の街が城壁と共に残っていて、ドイツのローテンベルグを思い出させました。その中にある古いレストランで部屋を暗くして蝋燭の明かりでビールを飲みながら土地の料理をご馳走になりました。

 宮野さんの話を基に少しエストニアのことを書いてみましょう。エストニア人というのは何処から来たのか、というのは良く分からないが、その言葉は北のフィンランドとは近いが他のヨーロッパ語とは異なった特有のものである。性格も独立心が強く、広々とした土地に点々と離れて家を作り、隣の家が林や森で見えないくらいをよしとする。この点はすぐに集まって騒ぐロシヤ人とは正反対である。どうもこれは村意識の強い日本人とも違うようです。1940年のソ連に最後通牒と共に軍隊を送り込まれてソ連邦に加盟した。しかし41年にはナチス・ドイツ軍に占領され、それが44年にソ連軍によって掃討され、以後ソ連の支配に戻りロシヤ人労働者が多数流入した。このロシヤ人が今では人口の30%位を占めているので、エストニア人との間での摩擦が問題ではないかと思ったのですが、宮野さんの話では、今では問題なくスムースにいっているとのことでした。この国は林や森の材木以外に殆ど天然資源がないのですが、それでは電力はどうしているか聞きましたら、北東部に油母ケツ岩が採掘されるので、これによる火力発電と石油精製が、国境の町ナルバで行われている由です。兎に角果てしなく平地の広がっている国でバスで走っても走っても野原か畑か牧場か、時々林や森があるばかりで、一番高い山が南東部にあるスール・ムナマキ318mだそうですが地図を探したが見つかりませんでした。

 この国の人達の平均の月給は3万円位で、まだまだ苦しい。しかし、それだけに物価が安いので、北に海を隔てたフィンランドのヘルシンキからタリンに大勢買い物に来るそうです。しかし、ロシヤとの境のナルバで私達も国境を越えたのですが、そこでは今度はエストニアの人がロシヤ側に買い物に出かけているのが見かけられました。即ち、ロシヤでは更に物価が安いということのようです。月給が3万円というと今の日本人はそんなに少なくてどうするの、と驚くようですが、私が若いときにアメリカヘ行った頃は、矢張り月給は3万円余(当時の100ドル)で、アメリの友人にそれで食べていけるのか聞かれた事を思い出します。エストニア人は音楽特に合唱が大好きで、首都タリンの郊外に大きな野外音楽堂があり、1,000人の合唱と2万人の聴衆がはいれる大きなものがありました。各地方では毎年、全国では5年に一度合唱大会が開かれるそうです。

 最後の宮野さんは日本語講師ですが、何故エストニアの人がこんなに縁のない日本語を勉強するのか、という疑問が残ります。宮野さんはそれは好奇心ではないか、その証拠に1月経ち2月経つと段々と受講生が減っていく話をしてくれました。しかし、折角習った日本語をもっと生かせる道はないものかと、考え込んでしまいました。学術分野でもっと交流が出来れば、この位の小さい国ならば話も早いのではないか、など思いましたが、家を遠くに離れて建てる独立心というのは、和をもって尊しとする日本人とは余りにも違いすぎて無理かななどと考えながらエストニアを離れました。

 なお、この話は宮野さんの話(私のうろ覚えの)の他は、平凡社世界大百科事典によりました。宮野さんにこの文章をメイルで送り、チェックして頂くと共に、僅か20名のエストニア在住日本人の1人として日本の皆さんに一言言って頂くべく返信を待っています。未だそれは届きませんが、届き次第追加で乗せることにします。


宮野さんからの返信 (2002.4.15掲載) ■ エストニアから