2002.3.4
 

2002年3月のトピックス

「新企画:京洛そぞろ歩き」の紹介

菅 原 努

 

 春を迎えてこの百万遍ネットも3月から新しい欄を設けることにしました。此処は京都1200の古い都です。沢山の方が観光にこられるお蔭でこの街もにぎわっていますが、皆さんが訪ねるところは、有名な神社仏閣、庭園が大部分です。私達も友人が訪ねてくると一緒にそれらをめぐります。

 しかし、実は京都の1200年の歴史は、そこだけではなくまわりの山々はもとより街角の小さな祠や石柱など、京都の町中にながい歴史が染みこんでいるのです。その昔の物語を私の医学部の友人の藤竹信英君に語ってもらおうと思います。彼自身の言葉を借りると、こうして町中を歩き回って隠された歴史を探るのが彼の健康法でもあるようです。次のように言っています。

 “生来の偏食の上、体操、体力テストはビリに近く、草野球、テニス、ゴルフなどは仲間入りを憚るほどの腕前である。今まで健康のために何をしていただろう。やっとただ一つ平凡でごく些細なことに気付いた。それは一つ目標をきめて、その目標にかこつけてこつこつ歩きつづけるのである。中学時代にははじめ目標を皇陵に定めた。あとで西国三十三ケ所観音巡りにも加わった。しかし尊王や願い事などの心はなかったので、何時か頓挫してしまった。

 年を経てからは飛鳥、大和の史跡めぐりに熱中した。それが嵩じて全国の国分寺跡探訪の途を歩んだのである。“

 彼は既に今まで訪ね歩いた記録を、「さすらいの旅:国分寺跡を訪ねて」(平成8年5月1日発行)、「東山三十六峰漫歩」(平成10年10月10日発行)という私書本にまとめていますが、これから更に彼と一緒に京の街を歩きながらそこに秘められた歴史をひも解いてみたいと思います。表向きには白い大きなビルとケバケバしい広告の氾濫する街になってしまいましたが、その片隅にひっそりと潜んでいる昔の物語を彼から聞きながら歩いてみませんか。

 彼も私ももう80歳を越えました。このホームページでは、新しい話とともにこのような古い話を今によみがえらせるのも、楽しいことだと思っています。

 最後に、著者から一言言ってもらいます。


藤竹 信英  

 私は復員直後の昭和21年(1946)から平成3年(1991)まで50年足らずを、洛北下鴨の地で内科医として、現代と違って往診に明け暮れする毎日を過ごしていた。そのとき、大徳寺の孤蓬庵の門前を通っても、又、別の日に、竜安寺石庭前を車で走っても、一寸立ち寄るというわけにはゆかなかった。そこで、七十歳を期として医業を退き、少なくとも十年間は思うがままに第二の人生を過ごしてみようと決心した。

 そして、十年を経過して私は京都の街の素晴らしさにすっかり魅せられてしまった。これからの人生も期待で一杯である。私を魅了するこの素晴らしさとはいつたいなんなのであろうか。それは人間のつくりあげた美しさにあると思う。しかも、昨日や今日という短い日月ではなく、何百年どころか、千年以上にわたって、人間が丹精に丹精をこめてつくりあげた歴史の美しさである。だから、京都のどの土をふんでも、どの石ころを拾ってみても、それは決して自然そのものではない。京都をめぐる山々の一木一草ですらも、人間の心がかよっているようにも思えるのである。

 しかし、この京都の素晴らしさを充分知るということは容易なことではなかった。長年の苦心のすえ、素晴らしい案内者に会う幸運に恵まれた。竹村俊則氏畢生の名著『昭和京都名所図会』(全七巻)の大冊である。京都の社寺とその文化財、史跡とその現況を紹介するだけでなく、欄外の註解もきわめて緻密で、挿絵もまた素晴らしい。常に机上から離せない愛読書となっている。

 そのうえ郷土紙京都新聞は以前から京都の文化や魅力などの報道に力を入れていたのであるが、その中には流石京都というような珍しい話題が多く、最近はその配達を待ちかねているほどである。先日も日曜版に、『源氏物語』に影響を及ぼした『落窪(おちくぼ)物語』の記事が載せられていた。本文は長くなるので省略するが、私が注目したのは、その本文に付けられた写真に映っている古ぼけたアパートに思い出があったからである。それは、昭和三十年代に新築されたとき、永住の場を求めていた下鴨の患者が念願を遂げたところである。私は一度だけ此拠に往診した覚えがある。この伏見区深草の住宅地の辺りは『落窪物語』の道化人物のモデルという「清原元輔」の屋敷跡といわれている。当時、私はそのことを知らず、今から思えば残念なことをした。

 では早速「京洛そぞろ歩き」へどうぞ。