2000.8.1

 
   
 

18.パラダイムシフトが必要と言う声を聞くが、どういう意味か:
   今までの放射線生物学のパラダイムとその問題点

 

 

 パラダイムというのはアメリカの有名な科学史家トーマス・クーンが1962年に出した「科学革命の構造」という本の中で言い出した言葉です。この本で彼は“パラダイムとは広く人々に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方の手本を与えるものである。思考の枠組みとしてのこのパラダイムを打壊し、自然についての異なった見方を導入することこそ革命にほかならない、”と言っています。もっと簡単に言えば、その時の代表的な教科書に書かれていること、と言うことです。

 私がこの言葉をはじめて聞いて印象に残ったのは、1992年の夏に京都で「低線量放射線と生体防御機構」という国際会議を主催した時で、招待したL.A.Saganが放射線のパアラダイムシフトということを高らかにとなえたのです。会議のあと早速書店を覗いてみると、このクーンの本の翻訳は1971年ですが、それが版を重ねてちゃんと書棚にあるではありませんか。私は早速それを購入し夢中になって読みました。多分今でも書店にはあると思います。この1992年はサンパウロで国際環境会議が行われた年で、それを受けてか、1993年頃から、21世紀を目指して地球時代での社会のパラダイムシフトとか、パラダイムシフトの時代などと言うことが盛んに言われるようになりました。しかし、世間の方は一時の流行かその後余りこの言葉を聞かなくなりましたが、放射線の方では、気長にその努力が続けられているのです。

 一度物事を説明する定説ができて教科書のようなものが出来ると、それを根本から変えることは容易なことではありません。古くて有名なのは天動説から地動説へのシフトです。少し大げさだと思われるかも知れませんが、放射線生物学でも同じ様なことが起こっているのです。放射線というのは目には見えませんが、それによる電離作用を利用して定量的な測定が良くできます。これを細胞や動物に照射して、そこで見られる変化を定量的に測定することによって、中で何が起こっているかは分からなくても線量と効果との関係を結びつける理論を立てることが出来ます。こうして放射線生物学はそれまでの記述的な生物学に定量性を持ち込んだのです。私などもそれを得意として定量的で論理のある生物学として放射線生物学を学生に講義してきたのです。今にして思えばそいれがかえって仇になりました。このもっともらしい理論は少々新しい事実を持ち込んでも容易に崩れるものではありません。

 放射線は細胞のDNAに傷を付けます。その傷がどのような機構を経てかは詳細は分かりませんが突然変異を起こします。一方がん細胞には突然変異が見られます。しかもがんはある線量以上のところで線量に比例して増加することが疫学的に示されています。途中の経路は全く分かっていないのですが、これから放射線はDNAに傷をつけそれががんになる、という説がつくられました。DNAの傷は線量が少なくても少ないなりに生じるでしょう。これから放射線はどんなに微量でもがんを増やす危険がある、という結論が導かれたのです。随分乱暴な論理だと思われるかも知れませんが、初めと終わりとの証拠を突きつけられると、これは簡単には反論出来ません。その反論の詳細は次号にゆずることにして、最近どんな新しいデータがパラダイムシフトを示唆しているのでしょうか。その例を少しあげて見ましょう。

 細胞が放射線を受けると細胞はその傷害の為に生存率が減ると考えられてきました。ところが細胞に予め数cGyの放射線を照射した後数時間たって今度は数Gyの照射をすると前照射をしなかった時に比べて染色体異常の出来方が少ないことが見出されました。この前照射の線量が数十cGy以上になるとこの効果は見られなくなります。この反応は適応応答と言われ今では広く認められています。これがcGyの領域だけで見られるのでこの線量では今までのGyオーダーの線量では見られなかった反応があることが明らかになったのです。上のパラグラフで述べた放射線とがんとの関係はGyオーダー(精々0.1Gyまで)での事実に基づいていることに注目して欲しいと思います。

 上に細胞の生存率ということを言いましたが、実はこれは細胞をばらばらに撒いて肉眼的なコロニー(細胞の集落)を作るのを見て生きている細胞があったとしてきたのです。即ちコロニーを作った細胞はみな同じような生存力があるとしてきたのです。しかしこの細胞をもう一度ばらばらにして調べるとその中に染色体異常や突然変異などをもったものがあり、みんなが一様に正常の細胞とは言えないことが分かって来ました。この実験は数Gyの線量を照射していますので、この程度の放射線には何度も分裂したあとに現れる異常を生む作用がある、即ち放射線は細胞を遺伝的に不安定にする作用があることが明らかになってきました。これの細かい出来方は今研究が進行中ですが、最初にDNAに傷がついてそれが総ての出発点であるというのは、何だか怪しくなってきたのです。

 このような実験的な事実の他に、高自然放射線地域の住民や原子力施設の作業員など、自然状態の数倍の放射線を長期にわたって受けている人達のがん罹患や死亡のデータが集積してきています。それらでは今のところDNAの傷から予測されるようながんの増加は見られていません。今までの疫学のデータは主に広島・長崎の原爆の一回照射によるものなので、それと長期にわたって少しづつ受けた場合とは違うのではないかと言うことが示唆されます。

 こうして現在のパラダイムの矛盾が段々と溜まってきているのですが、これに対する世界の動きを次回に見ることにします。

 

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