2015.9.2
 
Editorial (環境と健康Vol.28 No. 3より)

多元的教育システムの必要性


村田翼夫

 

 

 日本の学校教育における児童生徒の教育指導については多くの問題が指摘されているが、学習内容理解の困難さと関連して日本の伝統的な単一システムがもたらす弊害とその改革について考えてみたい。

 近年、国際化への対応を考慮して小学校において 2010 年度から「外国語活動」が取り入れられ、5、6 年生が主として英語を学習することになった。2020 年度からはそれを正規の教科へ引き上げることが計画されている。同様に道徳教育も同年度から教科にしようとしている。しかも、これらの改革は全国一斉にすべての小学校において実施されることが特色である。

 国際化の進展に伴って英語が重要なコミュニケーション手段になることは認めるが、今日のような多言語化社会にあっては他の外国語を教えることも配慮すべきではないだろか。日本への留学生、観光客をみてもアジア諸国出身者で、中国語、韓国語、タイ語、マレー語などを母語にしている者が多い。彼らとの交流を考えれば、画一的に英語のみを重視するのではなく、地方によっては前述のようなアジア言語、あるいは北海道ではロシア語などを教える工夫があってもよいのではないか。そうすれば、隣国の理解も深まるし、これから重要になると思われる東アジア共同体のメンバー意識を涵養して行くためにも有用と思われる。

 ちなみに、筆者がしばしば調査に訪れているタイでは、中学校で英語に加えて仏語、独語、高等学校では仏語、独語、日本語、中国語、アラビア語を選択科目に指定しその中から 1 言語選べることになっている。また、韓国では 2014 年度から、中学校および高等学校において8 種類の第2 外国語(ドイツ語、フランス語、スペイン語、日本語、中国語、ロシア語、アラビア語、ベトナム語)を設定し、そのうち1 言語を選べるようにしている。

 日本の学校では、こうした教科教育ばかりでなく各種の役割遂行の期待が大きく、学校教員は仕事に追われ帰宅の時間も遅くなる人が多いと言われる。他方、児童生徒には、いじめに遭遇したり、登校拒否を起こしたり、学級崩壊を経験するケースも増えている。筆者が、京都女子大学学生の教育実習指導のため関西地区のいくつかの中学校を訪問した時、2、3 年生のクラスで何人かの生徒が授業中に席に座らず教室を歩き回ったり、廊下で寝ている生徒がいたりしていて驚いたことがある。高等学校では、惰性的に登校しているが学習内容が理解できず、学習意欲を失い無気力になっている生徒も多くいると聞いている。どうしてこのようなことが起きているのか。

 今年の 1〜2 月にかけて京都市の小学校の若手教諭 9 人と小・中高校の年長教諭(校長・副校長・指導主事等)7 人を対象に面接およびアンケート調査を行い、彼らが直面している問題について問うてみた。その結果は、本誌 28 巻 2 号のサロン談義「学校現場からみた教育問題」に掲載した。最も多かったのは、「一人ひとりの個性差に応じた教育指導ができない」であった。具体的には、「子どもの学力差が激しく一斉授業(35〜40 人)では困難である」、「全員がわかる授業が課題であるが、一人ひとり課題があり、一斉授業では難しい」、「障がい児教育を担当したが、いろいろな障がい状態の児童がいるのに児童の状態に応じた対応ができなくて困った」などである。確かな学力の形成には学習指導の個別化が必要であることは、教育改革委員会などで幾度も指摘されてきたが、実現に至っていない。

 日本では、伝統的に集団中心主義の教育、画一的かつ硬直的な教育が行われてきた。そのことがこの問題の背景にあると思われる。学校では一人のクラス担任教師あるいは専科教員が 30〜40 人の児童生徒に一斉授業を行ってきている。しかも学校は年齢主義が基本になっていて自動進級制を採用している。学習内容の理解の程度を問わず進級させる。習熟度別学習は応用されているが、学年枠を越えた指導は行われない。飛び級も認められていない。その結果、学習内容が理解できず、授業を聞こうともしない生徒が生じているのではないか。

 第 2 に、教師が多忙で肝心の教育指導・生徒指導に専念することができないことが指摘されていた。例えば、「会議、保護者向け文書、事務作業、部活動などで遅くなり、授業そのものの準備や教材研究をする時間がない」、「土、日に学校で行われている地域行事への参加も負担である」などである。このことも、基本的に 1 学級 1 人担任教師システム、小学校に専科教員を置かない、教員・カウンセラー・職員の不足、保護者や地域人材の協力を得ることの困難性、ICT(情報通信技術)の活用の不十分さなどの問題と関連していよう。

 筆者が以前にアメリカ・カリフォルニア州バークレー市で訪ねた小学校では、教育実習生以外に何人もの親が学習の補助にきていた。もっともその学校のクラスではほとんどグループ別、個人別学習が行われていた。音楽や美術の時間には地域のすぐれた技能を有する人材が授業の補助を行っていた。3 年前にカナダのエドモントン市の小学校を視察した時、クラスに障がい児童がいると必ず専門教員が傍について補助していた。また、4 年前にオーストラリアのニューサウスウェールズ州のリズモア市の学校を訪問した時、障がい児童のクラスには電子黒板が導入されていた。このような対策を行えば、教員の不足、地域人材の活用、ICT の利用も可能になり、教員の多忙も軽減されるのではないかと考えられる。しかし、そうした多様な試みを実践することは、日本のように画一的な単一システムを採用している国では困難であろう。

 学校制度面をみてみると、日本では、外国人児童生徒が日本の学校へ就学することは認められている。それでも外国人学校、インターナショナル・スクールは私立学校として認可されず各種学校扱いである。以前に、あるインターナショナル・スクールの校長と面談した時に、この学校では日本の私立学校と同様に税金を払っているのに私立学校と認められないのは不合理であると不満を漏らしていた。また、在日韓国・朝鮮人が入学している韓国学校、朝鮮学校では、民族教育が行われている。民族教育というのは、彼らの民族文化・歴史・地理などを教えるものであり、日本の子ども達は受けていない。大阪府内の約 180 校に民族学級が設置され、朝鮮にルーツを持つ子ども達を対象に、放課後、出身国の歴史・文化や母語などを教え、民族アイデンティティを育み、自尊感情を形成する場となっている。そこでは日本人児童生徒の民族学級への参加・交流、教職員、PTA・地域の理解と協力を得ることが課題となっている。また、朝鮮学校への公的補助を地方自治体は行うようになっているが、政府はいまだに認めていない。

 筆者が調査してきた東南アジア諸国の学校制度・教育方法をみてみると、マレーシアの小学校では、国語であるマレー語の学校以外に、中国語学校、インド人が通うタミル語学校が設立されている。ただし、中等学校ではマレー語による教育に統一されるが、私立の中国語中等学校は存在している。多民族で構成されるフィリピン、インドネシアにおいては、国語教育が十分に普及していないこともあって、小学校の低学年では地方で使用されている民族語で教育を行うことが認められている。イスラーム教徒の多いインドネシアでは、普通学校(スコラ)に加えて宗教学校(マドラサ)にも就学して義務教育を受けることができるようになっている。いわば、学校が二重制度になっている。また、タイやシンガポールにおいては、そこに設立されている日本人学校は、各種学校ではなく同国の学校と同じ種類の私立学校として認可されている。

 民族構成が異なる日本において、この種の多様な学校制度・教育方法を直接導入することは難しいだろうが、これからの国際化、グローバル化時代にあっては、多様な個性、異質な文化を持った人々が共生を図りつつそれぞれの個性・能力を存分に発揮できるような学校制度・教育方法を工夫する必要があるだろう。ソフトウエア−を中心とする情報化時代には、工業化社会において重視された画一的に規格化された商品を生産する労働者・経営者ではなく、個性的で豊かなアイデアを持ち多様な能力を発揮できる人材が要請されている。

 もう 20 年以上前になるが、タイの教育省で教育次官をされていたチャルーン・ボンサヤ氏と話した時に、海外へ留学や仕事に行った場合に、その後現地に留まらず必ず帰国するのは、タイ人と日本人のみであると指摘され驚いたことがある。確かに、日本もタイも小学校から大学までそれぞれ日本語、タイ語の国語で教育することになっており、いろんな分野において同質的コミュニティやサークルがみられる。自分たちの国のものと異なる異質システムを有する社会には住みにくくて、なじみ深い均一システムを有する自国へ帰ってしまうというわけである。それは、自国の伝統文化に誇りを持ち、国民のアイデンティティの保持にとって好都合かもしれないが、これからのグローバル化時代にそうした同質社会を維持していくだけで諸問題に対処して行けるのか心配である。

 栗本一男氏が「日本ゆで卵論」を彼の著書『国際化時代と日本人−異なるシステムへの対応−、NHK ブックス、1985 年』の中で紹介している。日本人は世界全体を国内と国外に峻別して考える。ゆで卵で、黄色い部分は日本、白身は国外として区分され、国内も国外も均質と考えられているというのである。日本文化も地方によってそれぞれ特質を持っていて決して均一ではない。まして、異文化の外国文化が入ってくれば益々多様化してくる。しかし、日本には内と外を区分して使い分け、自分は内側のものとして固定し外側の者を「よそ者」として排除する傾向が強い。新しく後から入った人は、前からある古いもの、長く存在する伝統に同化し和して行くことが重要という社会規範が存在する。そこでは、新しい異質なもの、異質な人々は評価されず、伝統的規範、文化への同調、同化が求められる。

 これからは、このように日本が均質化した社会であるということを前提にした単一システムを改革して多元システムを確立する必要があると思う。多元システムというのは、本来、異文化の価値を認めて異質なものに対処していくシステムであり、異質で多様な文化を持つ人々が共存・共生して行けるよう工夫されたメカニズムを指す。いわば、多様な言語、習慣、文化の存在を認め、多様な能力を発揮しやすいよう工夫されたシステムを意味している。従来、日本社会は日本語で交流しつつ同じタイプの生活様式を維持してきたが、今後、日本人と異質な外国人、あるいは外国文化を身につけて帰国した日本人と協働して新しい社会を創造して行かなければならない。日本人の間でも多様な能力・才能を備えた人々、個人差のある学力を持った児童生徒がいる。さらに、特色を持った地方が存在する。彼ら一人ひとりのニーズに対応した措置が取れるシステム、ならびに地方の独特な特色を発展させるシステムを整備することが求められる。日本は均質化した社会ではなく多様な文化を持つ社会であると考え、それらを尊重するシステムを確立しなければならない。教育においても全国一斉に同一の教育を実施するのではなく、地域、地方、学校、教育センター等が柔軟かつ自由な発想で各児童生徒の多様なニーズおよび能力・学力に対応したり、地方の特色を生かした教育を工夫したりできる多元的教育システムを構築することが大きな課題である。

 多元的教育システムを確立しなければ、英語以外の外国語教育の導入、年数主義に固執する自動進級制度の変革、学年制の枠を越えた習熟度別学習の実施、教員・カウンセラー・事務職員の増加、保護者や地域住民の学校への協力、ICT の柔軟な活用などを実現することは困難であろう。

 


(公財)未来教育研究所特任研究員、筑波大学名誉教授(比較国際教育学)