2015.6.1
 
Editorial (環境と健康Vol.28 No. 2より)

医療の立場から死を考える


本庄 巌

 

 

 東京日暮里の禅フロンティア日本文化研修道場では、隔月に禅をめぐる様々なテーマで公開講座が開かれていて、私もこれまでに二度ほど参加したことがある。そして今回の講座では禅は死をどうとらえているか、“死と禅”という重いテーマで、私を含め禅者でもある医師 3 人と総裁老大師による講演と討論とが行われた。しかし何故かテーマの核心には至らず不完全燃焼に終わった。霊魂の存在に否定的な禅の立場と、死を看取る終末期医療の立場とのつなぎ目が十分に論じられなかったことによるが、死にゆく人の心情や死生観に触れなかったことも関係していると思われた。死について問われた孔子は「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と正直に答えているが、それほどに死を語ることは難しい。

 このところ我が国の内外では痛ましい災害やテロなど命の尊厳が侵される事態が次々と起こっているが、その報道ではいつも現場はブルーシートで覆われ、映像にはモザイクがかけられている。死を直視することを避ける私たちの姿勢に沿った報道なのであろうが、死は誰しも受け入れなければならない生物としての掟であり、この機会に私なりに現代の日本で死がどう捉えられているか、そして死にどう対処できるかなど、禅という看板を外して医療の立場から考えてみたい。

 現代では死の時と場所は必ずしも選べなくなった。いのちの終わりが家族の立ち入れない病院の集中治療室になるケースが少なくない。さらに脳が機能しなくなった状態でも、自然な死を迎えることが難しい。私の親しい友人は重い脳疾患のため意識不明の状態で、もう 6 年余り生かされている。何度か病院に見舞ったが、気管切開と胃瘻で呼吸と栄養が管理されているが、人間としての尊厳はなかった。死を遠ざけようとする医療従事者の職務と、延命を望む家族の意志とが合わさった時、従来なかった特殊ないのちの存続が生み出されている。ちなみに我が国で行われる胃瘻のケースは英国のそれの 25 倍に達するとされる。

 結核を始め感染症はほぼ完全にコントロールされ、日本は長寿社会の先頭に立っているが、その代償として癌に罹る人が急速に増えている。癌の告知が普通に行われるようになり、私たちは死の不安と共に生きなければならなくなった。しかし医師は死を迎える患者の心のケアについてはほぼ無力である。医学部では終末期の援助のカリキュラムが殆どなく、また治療に多忙な医師にそれを望むのは無理である。しかし最近終末期の医療に特化した医師が徐々に増えている明るいニュースがある。また人の悩みや死の恐怖などの心のケアができるのは宗教者であるが、従来、日本の僧侶は生前の人の心に立ち入ることはなかった。しかし最近僧侶による終末期の患者を支えて死をみとる活動が注目されており、この輪が全国に広がることが望まれる。

 近頃よく「心肺停止」という言葉を聞く。私が医学生の頃には耳にしなかった言葉である。心肺の停止が死のサインであることは素人にもわかるが、何故か死とは言われない。死のサインには、これに瞳孔の拡大と反射がないことが加わるが、これを医師が確認しなければ死とは認められないのであろうか。海外のメディアでは、この訳語に困惑していると聞く。これに関連して心肺蘇生という医療があるが、心臓の停止が 5 分以上続くと脳は不可逆的な変化を起こし救命の可能性は限りなく零に近い。半世紀あまり前に、郷里の病院でインターン生をした時、当直医と一緒の病院泊まり込みの実地修練では、深夜に交通事故で心肺停止の状態で運ばれて来る患者には、先輩医師の指示で、アドレナリンの心臓注射を行い心臓マッサージを続けた。しかし決して心臓は鼓動せず、しばらくして先輩医師の死亡の告知で家族は泣き崩れるのが常であった。そして無駄と分かっていても、私たちの懸命の救命処置が家族の心の救いになることも知った。

 しかし人の死の定義は状況で変ることを私たちは脳死臓器移植で経験している。脳死状態で呼吸が停止しても、人工呼吸器で心肺は動く人為的な生命であるが、これを死亡とみなし、拍動する心臓をはじめ諸臓器を取り出す医療である。人工呼吸器による呼吸管理で脳死状態でも思春期の子供の場合、成長を続けることが知られており、脳死を死と見なす思想は、必要な臓器のために死の定義を変えた西欧の合理主義ともいえる。当時大学の倫理委員会の一員であった私は、臓器移植法の発効で、日本でも脳死臓器移植が大幅に増えると予測したが、我々日本人はこの死生観について行けず、先進国の中では脳死者からの臓器移植の率は最も低い。代わって肉親からの臓器提供を受ける生体肝移植が日本で独自に発展したことは今日見る通りである。

 動物の中で唯一大脳皮質を発達させ、地球の支配者となった我々ヒトは、その代償として過ぎ去った過去に悩み、まだ見ぬ将来に不安を抱く、心というものを持った。その結果死に対しても不安と恐怖を持つことになり、その解決策として宗教が生まれたといえる。仏教もキリスト教も、宗教として完成する過程で、ひとしく地獄極楽あるいは天国の風景を描き、また輪廻転生を語って人々の不安を和らげてきた。ヨーロッパの教会では必ず空に舞う天使とマリア様が描かれ、バチカン・シスチーナ礼拝堂のミケランジェロ描く「最後の審判」は、その最大の産物であり、日本でも阿弥陀来迎図や地獄草子など枚挙にいとまがない。

 しかし誰も死後の世界を見て生還した人はなく、それに代わるものとして臨死体験が注目される。なかでも最近報告されたハーバード大学の脳神経外科助教授の天国が実在するとする彼自身の臨死体験は、医師の報告のため大きく注目された。しかしそれまでの報告と同じく暗闇を抜けて光に包まれた天国に行き、愛する人と大空を飛翔し歓喜に包まれるというものであった。もしこれが本当に死後の世界であるとすれば、死は決して恐れる対象ではないが、残念ながら彼の体験は天国の証明にはならない。彼の 1 週間にわたる意識消失は髄膜炎による大脳皮質の沈黙であり、旧脳あるいは原始脳の中の感情の場である扁桃体や記憶を司る海馬は働いて、幻覚を起こすドーパミンや快楽と関係するエンドルフィンなどの脳内神経物質によって光り輝く天国を体験したものと思われる。

 西行法師は望み通りに満開の桜の下で死を迎えておられるが、現代の私たちは現在の医療体制や家族の希望もあって、必ずしも死の時と場所を選ぶことはできない。しかし少なくとも過度の延命処置は望まないという選択は出来る。私たちの祖先と同じように、動物の一員としての、自然な死の迎え方である。オランダでは自分でスープを飲めなくなったら、それ以上の介入を控えるとされている。一見非情のようだが、これも一つの選択肢ではないだろうか。点滴や胃瘻を介しての補液が苦痛を長引かすことが知られており、そのためにも、はっきりとした意志を配偶者と子どもたちに伝えておく必要がある。

 ひとたび心というものを持った私たちは、たとえ天国や極楽あるいは輪廻転生を信じなくても、自分を越えた大きなものに導かれ、ご先祖様たちが眠る場所に赴くという安心があってよいのではなかろうか。禅の修行で生死を離れた悟りの境地に至る人は稀であり、多くの人々は肉親の死に際して、自身の死を思う時、心のよりどころを求めるのはごく自然なことであろう。京都では毎年、お盆の翌日の夜に、ご先祖様があの世にお帰りになる大文字の送り火の行事があるが、いずれ我々もあの煙のように西山の空に還ってゆくという思いを、日本人なら誰しも持つのではあるまいか。

 


京都大学名誉教授(耳鼻咽喉科学)