2014.6.2
 
Editorial (環境と健康Vol.27 No. 2より)

台湾で考える科学者と思想


竹下 賢

 

 

 3 月上旬、2 年ぶりに台北を訪問する機会を得た。報道によれば、最近の台湾の経済成長はこの2 年間は2 パーセントを割り込む状態で、生活水準は 10 年以上も同じであって、国民の間には馬英九政権に対する失政感が広がっているといわれる。しかし、台北の中心街の賑わいは相も変わらず、とりわけ夕刻から夜にかけての賑わいは、経済的な状況の悪さを実感させるものではない。それでも、馬総統の支持率の低さは歴然としていて、国内の政治的な不安定さは明らかなようである。外向的な台湾の国民は、そうした経済や政治の状況とは関わりなく、巷(ちまた)にでて喫茶や食事を楽しむのかもしれない。

 台湾の政治史は大戦後の国民党による一党独裁から、国民内部での激烈な闘争をへたうえで、民主的な 2 大政党制に移行している。民進党は 2000 年に初めて、陳水扁総統のもとで政権を担当したが、8 年後に国民党に政権を奪われて現在に至っている。上記のような政権の不安定さは民進党の政権復帰につながるように思えるが、実情はそうでないようで、たとえば 12 月に実施される台北市長選の世論調査で、もっとも高い支持率の候補者は、台湾大学病院の医師である柯文哲氏であり、無党派である。つまり、2 大政党制、さらに政党政治に対する国民の嫌悪感が増大してきているとされる。

 この「政治素人」へのインタヴュー記事は、興味深い。同氏によれば、無所属の市民派候補はかなり以前に東京、そして大阪やソウルですでに登場しているという。さらにそれは、既成政党の対立というのは争点があるように見せかけているだけで、市民派候補はそれこそが問題であると国民に訴えかけ、それを国民も理解するようになってきたからだともいう。じっさい日本のテレビ報道でも、台湾の与野党の乱闘や野党の議場封鎖などが伝えられているが、それらは議会の建設的な審議を妨げるだけだという、国民の批判を招いている。たしかに政党政治には、馴れ合いか極端な対立のどちらかに陥る傾向があることは否めない。

 帰国してからの 3 月 18 日、台湾の立法院が学生達に占拠されたのを、ニュースで知った。上記の脈絡でいえば、国民の嫌悪の的である政党政治の象徴が、「政治素人」である学生に拒否権をつきつけられたということである。学生の反乱の直接的な原因は、馬政権がサービス業を中国と開放しあう「サービス貿易協定」に調印したことにある。学生はこの協定によって、資本力のある中国企業が台湾側を席巻してしまうと危惧している。さらに、協定を承認する審議の過程が問題にされ、学生は、与党が委員会審議を開始直後に打ち切って本会議に送付したことを、民主主義の破壊にあたると非難している。このあとの 24 日には、学生と市民が行政院(政府)に突入するという騒ぎがあり、これは警官隊により阻止され、座り込みデモ隊も強制排除された。しかし、立法院の占拠はなお継続している(3 月 28 日現在)。

 この学生の反乱の報道に接してすぐに想起されたのが、滞在中に鄭南榕記念館を訪問した際に、最近は若者の来館者が増えていると伺ったことである。鄭南榕は台湾の独裁時代に言論をもって闘った自由主義者であり、「100 パーセントの自由」を主張して、1986 年当時で 38 年に及んだ戒厳令に対抗して、台湾で最初の撤廃運動を組織した。こうした市民運動の盛り上がりのもと、翌年に戒厳令が解除されたが、南榕への言論弾圧は止むことがなかった。そして 1989 年、逮捕に来た警察隊の突入と同時に、南榕はビルの一角にあった雑誌社の編集長室で焼身自殺を遂げたのである。この 41 歳の闘士に因んで、ビルの前の巷(ちまた)は「自由巷 Freedom Lane」と名づけられている。

 ここで話題にしたいのは、この鄭南榕が大学の勉学を理系から始めたことである。学歴をいえば、台南成功大学工程科学系から輔仁大学哲学系をへて台湾大学哲学系へと大学を転々としていて、最後の台湾大学では、「国父(孫文)思想」の授業をボイコットしたがために、結局、大学の卒業証書を得ることはなかった。このような学歴を聞いて興味があったのは、理系の学問と思想との関係、それも国父思想をボイコットしたような思想との関係であった。南榕は自己を、「行動の思想家」と位置づけている。

 記念館において解説に当たっていただいたのは、南榕の弟、鄭清華氏であった。同氏に南榕はどのような哲学を研究したのかと尋ねたところ、「数理哲学」という答えが返ってきた。数理哲学というのは数学の哲学であり、現代的には非ユークリッド幾何学の公理論や集合論などがこの学問分野で知られているが、それらの理論は直接に思想に関連することはない。ただし、数理哲学者がその哲学とは関わりなしに思想を形成することは、十分に考えられることである。ところが、南榕の主たる研究対象はバートランド・ラッセルの数理哲学であったと聞き、なるほどと納得できたのである。

 というのは、周知のように、ラッセルは数理哲学者であると同時に、まさに「行動の思想家」でもあったからである。その側面で有名なのは平和主義者としてであり、1955 年にラッセルはアルベルト・アインシュタインとともに、核兵器の廃絶を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表している。また 1967 年には、ジャン・ポール・サルトルとともにベトナム戦争を裁く国際戦争犯罪法廷を開廷する。このラッセルの行動する姿を、南榕が知らないはずはなく、これを自己の生き方の模範としたことは明らかであろう。

 それでも、ラッセルにおける数理哲学と平和の思想とのこのような両立は、前述のようにただちに説明できるものではない。それはむしろ、ラッセルの個人的な思想傾向に帰するものであり、両立は偶然であるともいえる。しかし、これに対するラッセル自身の答えを、著書『西洋哲学史』の序文に見つけることができ、そこでは、数理哲学ではなく哲学一般の特質が説明されている。

 ラッセルによれば、哲学とは科学と宗教との間にはさまれた無人地帯であるという。一方の科学は、経験に立脚した実証に基礎づけられた知識によって構成され、他方の宗教は、啓示とか聖典によって権威づけられた言明から成立する。この両者に対して、哲学は経験によって厳密に実証されていない事柄やその性質から科学によって解明されえない課題に、宗教のように何らかの権威によって根拠づけることなく、理性的に解答を与えようとする思索を基礎にしている。哲学は一方で実証の向こう側に立ち入りながら、他方で独断を忌避しているといえる。この哲学の精神は、南榕が「国父思想」の授業をボイコットした姿勢に通じるものであろう。

 このように見てくると、南榕はラッセルに導かれて、科学から哲学をへて思想に至り、具体的には自由主義の思想を結実させた。そこで注目すべきは、哲学一般の特質についてのラッセルの考えであり、それは、実証のみに囚われず独断に陥らない理性的な思索としての哲学の精神である。このような精神は、常識という枠内でも人々によって実際に重視されているものではなかろうか。前述の「政治素人」も、この精神に培われている。南榕は自由主義の思想を基盤に台湾独立の理念を掲げたが、その運動は今日の台湾の民主主義をもたらした。ここで取り上げた台湾の学生にも多くの理系学生がいることであろうが、内容はさまざまとしても、彼らも南榕と同様に科学から思想の方向に一歩踏み出している。

 


関西大学教授(法哲学・環境法思想)