2013.6.3
 
Editorial (環境と健康Vol.26 No. 2より)


留学について思うこと


本庄 巌*

 

 

 最近医学部の教授から聞いた話では、海外留学を断る若い医師が増えているそうである。にわかに信じがたいことだがアメリカへの日本人留学生が年々減っており、それに比べ中国や韓国の留学生は右肩上がりという統計を見てやはりそうかと思った。しかし私は日本の若者が一度は欧米で生活し、近代文明を生みだした国の風土を肌身で感じつつ勉学に励む機会を持ってほしいと思っている。異国の地で学問をするということはかなりのストレスであるが、旅行や学会出張とは異なる貴重な経験になると思うからである。

 海外に学ぶ制度はわが国の伝統で、遣唐使の時代から先進国の文物を吸収すべく優秀な若者を中国に送り出してきた。この船旅は大変危険で三隻のうち一隻だけしか目的地に着かなかった例もあるそうだが、それでもエリートたちは果敢に中国へ渡っている。宗教に限ってみても中国に赴いた平安期の空海や最澄、鎌倉期の道元などいずれも日本の仏教史上の巨人である。江戸三百年の鎖国のあと明治になると今度は西欧が目的地となったが、文学では鴎外、漱石や荷風、絵画に至ってはかの地に遊んだ若者は数知れない。自然科学の医学の分野では北里柴三郎や秦佐八郎の業績が知られている。そして第二次大戦後はアメリカへの留学生が相次ぎ、彼らによって最新の知識や技術がわが国へもたらされた。歴史的に見てもわが国は外国の文明を吸収することで自国の文明を高めてきた。これは東海に浮かぶ島国という地理的条件の宿命ともいえるが、好奇心旺盛で吸収力に優れた英才たちによって江戸の遅れを一気に取り戻し、アジアの国々の中では断然多いノーベル賞受賞者を出すに至っていることは今日見られる通りである。

 さて約半世紀前、私が医者になった頃の日本ではアメリカ留学が憧れの的であり、医学部では学位取得後にアメリカの研究機関に2、3 年留学するのがいわば定番となっていた。アメリカの医学水準は当時も今も日本より高く、何よりもオリジナルな仕事を生みだす自信と使命感があり、医療技術や薬剤だけでなく医療の概念、例えばインホームド・コンセント(説明と同意)やエビデンス・ベイスド・メディシン(科学的根拠に基づく医療)、更には最近のナラティブ・ベイスド・メディシン(物語に基づく医療)まですべてアメリカからやってきている。

 若者たちが敢えて留学を希望しない理由はいろいろ考えられるが、その一つは現今の情報の氾濫であり、日本にいても海外の最新の文献が即座にネットで手にはいることがある。しかし知識の伝達は発信の現場で得るのが理想であり、パソコンの画面からの情報には感動という要素は期待できない。また我々の時代では外国旅行もままならず、いわば外国は憧れの地であったが、現在では大抵の学生は外国旅行を経験しており、海外への興味が薄れつつあることも事実である。しかし旅行で見聞した外国と実際にその地で生活した経験とは大きな違いがあり、何よりもこれまでの近代科学を生みだした欧米の環境の中に身を置くことは貴重な経験になると思われる。

 そこで以下にささやかな私の留学体験を紹介して留学について考えてみたい。私の場合、留学先はドイツで、しかもある事情で 1 年間という期限付きと、かなり変則的な留学であった。しかし私はその留学がその後の私の進路にとってかけがえのない分岐点であったことに気づいている。私の留学したヴュルツブルク大学はドイツ・バイエルン州のヴュルツブルクという大学街にあり、フランクフルトの東、マイン河に沿いロマンチック街道の起点にもなっていた。街の中心には美しいレジデンツの建物があり、マイン川に掛るアルテブリュッケを渡ると丘の上のマリエンブルグ城に至る。私はドイツ・フンボルト財団の奨学生として留学したが、財団の趣旨は世界各国の将来性ある研究者に奨学金を支給し、ドイツの研究機関での研究を支援する制度である。翻って現在日本ではどの程度の規模で中国や韓国などアジア諸国からの奨学生を受け入れているのか気にかかるところである。

 フンボルト奨学制度では初めの 2 か月間はゲーテ・インスティテュートでドイツ語研修を受けることになっているが、私の場合、幸いローテンブルクの学舎で学ぶことになった。久しぶりに学生時代に戻った気分で、色んな国からの若者と交わる毎日であったが、おかげでツアー・ガイドができるほどにこの街に詳しくなった。休日には友人から譲り受けたフォルクスワーゲンでロマンチック街道のドライブを楽しんだり、復活祭では近くの聖ヤコブ教会でバッハのヨハネ受難曲を一人聞いて異郷にある自分を実感したりした。

 私の留学先は中耳炎の画期的な手術法を創案されたウルシュタイン教授の教室で、もし医学の分野でノーベル賞に臨床部門があったなら、先生は間違いなく有力候補になっておられたと思う。鷹のような眼をした怖い方と聞いていたが、先生にとって最後の弟子であったせいか私には大変優しい先生であった。何度か招待されたお宅はマイン川の向こうにマリエンブルグ城を望む高台の豪邸で、ご自慢の中国陶磁や印象派絵画のコレクションもあって、日本の大学教授とは違う豊かな生活ぶりであった。最後にお伺いした折には、出版されたばかりのご自分の手術書にサインをして記念に下さった。

 私の研究テーマは、結局滞在中にはまとめることはできなかった。かわって私がここで得た収穫は留学の後半、教室の図書室に入り浸って古今の耳鼻科の書籍の中から私の研究テーマに関する文献を手当たり次第に読んだことであった。そしてまだ決着がついていない問題点を発見し、この謎を解く実験計画を図書室の静寂の中で練り上げた。振り返ってこのような思索の時間は日本の喧噪のなかでは決して得られなかったし、耳科学のメッカ、ヴュルツブルク大学の雰囲気が後押しをしていたのだと思う。帰国後この実験計画に従って得た成果をアメリカ・オハイオ大学での学会で発表した。幸運にも座長はウルシュタイン先生で、発表が終わると先生は座長席から歩み寄ってこられ、抱きかかえるようにして褒めて下さった。その後何年かしてウルシュタイン先生の後任教授からヴュルツブルク大学での中耳手術のコースに講師として招かれた。講演会場は懐かしい耳鼻科の階段教室で、留学中はこの最上段の席でウルシュタイン先生の講義を聞いた場所であるが、今度は演壇に立って講演をすることに感慨深いものがあった。冒頭の挨拶をドイツ語ですると聴衆は足を踏みならして歓迎してくれ、講演の後でかつての同僚は「ウルシュタイン先生の理論を君が証明したのだ」とコメントしていた。

 たった一年の留学であったが、壮麗なレジデンツ大広間でのモーツアルト・フェスト、家族で歩いた秋のカスタニエンの並木道、ニュールンベルグのクリスマス・マーケット、春浅き日のスイス・ドライブ旅行など、この地での楽しかった日々を思い出す。ヴュルツブルクは私にとって第二の故郷といえ、友人たちが元気なうちにもう一度訪ねたいと思っている。以上個人的な体験談に偏したが、若き日に異郷に身を置き、孤独の中で思索を巡らせたのは得難い経験であった。私の場合短期の留学であり日本でのポジションにそのまま復帰できたが、留学が長期にわたると帰国後の居場所がなくなる恐れもあると聞く。しかし本当に良い仕事をしていれば必ず受け入れ先は見つかる筈であるし、日本という狭い土俵に終始するのではなく、留学をさまざまな可能性につなげる絶好の機会として捉えてほしいと思う。遣唐使の時代、海を渡った学徒や学僧たちは当時の文化の源流である唐の地を踏むことで国際人としての視野に立つことができた。時代は変わり現在我々が享受している文明の源は欧米にあり、残念ながら我々はまだその文明の受け手である。将来わが国が文化の発信源になるためにも西欧文明を生みだした現場で日本人としてのアイデンティティーに目覚め、世界に通用する人材となってほしいと願っている。

 


* 京都大学名誉教授(耳鼻咽喉科学)