2012.12.3
 
Editorial (環境と健康Vol.25 No. 4より)


本誌「環境と健康」の四半世紀と課題


山岸秀夫*

 

 

 酷暑の本年 8 月 3 日、日本経済新聞社より本誌編集部に電話があった。用件は、本年 7 月 24 日に 98 歳で逝去された、元京大総長で脳解剖学を専門分野とされた岡本道雄先生の本誌掲載記事に関するものであった。岡本先生は、本誌 21 巻 1、2、4 号(2008)、22 巻 1、2 号(2009)の「サロン談義」欄に、教育改革に始まり、親孝行、愛国心、戦争の考察から「人間の共生き」に行きつく哲学的論考を発表されていた。先生の御逝去に当たり、新聞社がネット検索をして、本論文を発見したとのことで、小誌にとってはまことに光栄なことであった。9 月 17 日、京都大学時計台百周年記念ホールにて開かれた「岡本道雄先生お別れの会」では、先生の本誌別冊が旧総長室の遺品展の中に並べられていた。本誌 20 巻 1 号、特集/ 本誌20 周年の歩み、「20 周年記念にあたって」の中で、元京大医学部長で、当時編集代表の菅原努先生が述べられている「記録を残す」ことの大切さを実感した。菅原先生は、「昔京都にはこんな変わった組織があったと、後世で誰かが発掘してくれる」ことを期待して、「できれば 25 巻までは刊行を続けたい。四半世紀以上刊行を続けた雑誌なら、三文雑誌扱いでなく、国立国会図書館で保存してくれる」と語られていた。幸い本号でもって四半世紀の刊行を果たしたので、先生の念願もかない、国立国会図書館の本館と関西館で保存して頂けるものと思う。

 本誌の創刊は 1988 年 1 月で、当時の副題にあったように、「リスク評価と健康増進の科学」を目的としていた。その「発刊の辞」では、〈リスクとは、ある期間ある事をしたときに身体にとって障害を与えるような事象、例えば死亡や発癌などが生じる確率のことを言う〉とある。すなわち丁度、高度経済成長期の影の部分としての、低線量放射線被ばくをはじめ、種々の公害物質や石綿などの環境や健康に及ぼす確率的危険度を総合的に評価しようとした(財)体質研究会の先見的な機関誌であって、当初から医・生物学者だけでなく、広く理工学者、社会心理学者や経済学者の投稿を歓迎していた。昨年の福島原発事故を契機に、リスク評価が今日の問題となっている。ところが、このような確率的危険度(リスク)の評価には多くの要因が複合している場合が多く、12 巻 1 号(1999)より新たに、「要素非還元主義に基づく健康効果指標の研究」をテーマとした研究会の記
事が取り上げられるようになった。すなわち、〈単一要素還元主義を一旦離れ、複合要素のネットワークとしての生体を全体的な立場で捉え、しかも科学的に医療や予防の効果を評価する指標を研究開発すること〉を目指した。医科学界を中心として、理系の異なる専門分野の交流が促進されたが、どうしても要素還元主義の枠を超える思考までには行きつかなかった。

 そこで、19 巻 1 号(2006)より、文系と理系の思考を補完した、「いのちの科学−文理融合を目指して」をテーマとして、一般市民を対象とした特集を組み、一般書店での市販を始めると共にやがてインターネット上での有料購読も開始された。22 巻 1 号(2009)よりは、文理融合の科学からさらに宗教まで分野を拡大して、心身一元論の立場から「こころ」の問題も取り上げることになった。さらにリスクや指標として数値化できない複雑な現実の簡易化と抽象化の過程で切り捨てられてきた「個々のいのち」を社会の中に位置づける、「いのちの科学−共に生きる」をテーマとして誌面に反映させてきた。体系的な知識の啓蒙としての連載講座に引き続く誌面では、読者の話題の多様化に対応する種々の欄を新設してきた。以上のように、本誌は、医系財団機関誌から出発して、医・生物系準学術誌、環境と健康に関する一般総合学術誌へと脱皮を続けてきたが、それぞれの掲げた中心テーマは継承されている。そこに通底する本誌編集のモットーは、革新的な反骨(時代に迎合しない精神)と持続する伝統的地方色(中央に均一化されない多様性)とでも言えようか。

 今後の課題としては、まず「科学者と社会の橋渡し」を目指し、一般社会人に受容されるような「簡潔で、平易で、正確な」科学情報の発信・応答であろう。本号随想欄「仰げば尊し我が師の恩」に紹介されているように、これはビジネス英語でも必須のものとされている重要なキーワードである。今後の科学知識は、一般大衆紙の科学欄に閉じ込められるものでなく、新しい時代を生きる生活の知恵となるに違いない。アダムとイブの旧約聖
書創世記の神話によると、エデンの園には「生命の樹」と「善悪の知識の樹」があり、前者の果実は自由に食することが許されていたが、後者は禁断の実であった。たまたま二人はこの禁断の実を食することによって罰せられ、人間界に放逐されたとされている。そうだとすれば、この「知識」を「生命」に活かすことができる社会を目指すのは、人間に与えられた使命ではなかろうか。

 もう一つの課題は、読者層の若い世代への開拓である。その一つの試みは、本号の特別企画で取り上げている、〈親子で語り合う「いのちの話」〉である。まだ科学としては未知のことの多い脳と心の問題やゆとり教育の抱える問題点などを取り上げ、次世代の「いのち」を育んでいる、若い現役世代の関心を引き付けられるような本誌でありたいと思う。


* 公益財団法人体質研究会主任研究員、京都大学名誉教授(分子遺伝学、免疫学)