2011.9.1
 
Editorial (環境と健康Vol.24 No. 3より)


フィールドから発信する高度文明社会への警告
−西田利貞編集顧問を追悼して−


山岸 秀夫*

 

 

 わが国でルーヴル美術館や大英博物館など海外の有名なコレクションの特別展が開催されると、多くの人が集まり、会場は身動きのできないほどの盛況で、鑑賞どころでない。海外まで出かけることを考えると、絶好の機会を見逃すまいと、つい見たくなるのであろう。多くの場合特別展のコレクションは不似合いな置物の様で、実際には現地の美術館や博物館の中でこそ、その地の文化に溶け込んだ風格を示すものである。同様なことは、動物園や植物園についても言えるようである。そこでは世界各地の珍しい動物や植物を見ることができる。しかしそこで一般人がその現地の姿を想像することはかなわない。

 西田利貞さんは、大変惜しまれながら、本年 6 月 7 日に他界されたが、当時(財)日本モンキーセンターの所長であった同氏のご案内で、京都の名誉教授のサロンであるイメリタスクラブの会員が、2007 年秋に犬山市の同センターを訪問した。その際、種々の類人猿の檻の最後に開放された空の檻があり、その説明板に、「ヒト:未来を予測する能力があるが、地球上最も危険な動物」とあった。例え檻の中に実際に誰かが入っていたとしても、現実の高度文明社会の人間がどのように危険なのかは想像しようもない。その意味では動物園の個々の動物の説明板をいくら読んでも、その動物の自然の姿は浮かんでこない。

 西田さんは、京大動物学教室自然人類学講座の今西錦司先生の最後の弟子として、1965 年に「チンパンジーの社会構造の解明」を目的として、アフリカ中部のタンガニイカ湖畔に送り込まれて以来、チンパンジーの自然の姿を解析し続け、ゴリラよりもヒトに近い父系社会を発見し、やがてDNA 分子の解析による分子系統学の成果によって裏付けられた。その動物行動学の成果が文化人類学としても評価されて、1990 年にジェーン・グドール賞、2008 年には日本人初めてのリーキー賞を受賞された。この賞は人類起源研究の分野での最高の賞である。

 西田さんは 2004 年 3 月に京大を停年退職されたが、その直前の2 月に「健康指標プロジェクト」の例会で、「人類の起源」をテーマに「人間性はどこから来たか」と題して講演され、本誌 18 巻 3 号(2005 年)に掲載された。同年に発足した「いのちの科学プロジェクト」には早速委員として参加頂き、本誌 19 巻(2006 年)よりは編集顧問として査読とご寄稿をお願いしてきた。また同プロジェクトの出版事業としてのシリーズ「いのちの科学を語る」では、闘病中にもかかわらず、文章師の萬野裕彦氏を同伴した私との 5 回のインタビューに応じて頂き、2008 年 9 月に「チンパンジーの社会」と題して、東方出版より刊行された。本誌でも早速Books 談義に取り上げ、21 巻(2008年)4 号から 22 巻(2009 年)1、2 号まで、書評を兼ねた誌上談義に 9 人のコメントが寄せられた。西田さんから提出されたインタビューの最初のシナリオには、「反文明の時代」と題して、(1)少子高齢化歓迎、(2)発展途上国を犠牲にする飽食日本、(3)亡国の発明:シュレッダーとウオッシュレットなど、かなり過激な現代文明批判が盛り込まれていた。いずれも 40 数年間に亘って、文明と未開を往復する中で気づかれた高度文明社会の問題点であった。地球の生物多様性を犠牲にして、リスクと共存する右肩上がりの経済成長への警告は、喫緊の原子力エネルギー問題にも通じるものである。インタビューの最後に、コンセンサスの得られる人生観として西田さんが挙げられたのは、「他人に迷惑をかけない範囲で楽しく生きること」であった。なお 2007 年からは、前述した大学名誉教授の知恵のリサイクルの場としてのイメリタスクラブに正会員として加入され、その会報「百万遍通信」108 号(2007 年 7 月 31 日発行)に「研究事始めの頃」と題して、ほぼ40 数年前、初めてのアフリカへの出国前後のエピソードを紹介された。その最後に、「ヒトはゴリラよりもチンパンジーに近い」との動物行動学の発見から、「外見だけでモノを決めてはいけない」との教訓を学んだと記されている。

 1950 年代に、日本の霊長類研究の創始者としての今西先生を中心に始まった京大「サル学」のフィールド研究は、世界的にも珍しい「オンリーワン」の独創的研究であり、その後徐々に国際的評価を高めてきた。しかしその多くは和文で書かれた論文が多く、海外の研究者たちは、その一部の英文訳から全貌を垣間見てきた。そこで西田さんは、停年退職後しばらく学術振興会主任研究員を務められた後、病を押して、日本霊長類学の全貌を海外に紹介する英文モノグラフの完成に意欲を燃やされ執筆されたが、その道半ばにして止むことになったのは誠に残念なことである。今後そのご遺志を引き継ぐ若者の活躍に期待したい。

 異界での西田利貞さんのお名前は、「帰新元 利学正猿居士」とあった。やっとヒトとチンパンジーとの共通祖先としての正猿に戻られた西田利貞さんのご冥福をお祈りする。

 


* 公益財団法人体質研究会主任研究員、京都大学名誉教授(分子遺伝学、免疫学)