2011.6.2
 
Editorial (環境と健康Vol.24 No. 2より)


リスク管理と戦略的思考


竹下 賢*

 

 

 3 月11 日に三陸沖に発生した地震による東日本大震災は、津波をもともなって、文字通り未曾有の甚大な被害となりました。とりわけ人的犠牲者は、日本史上で最大とされる関東大地震の十万人に次ぐ規模です。地震や津波に予防的な対策を取るのは、国や地方の役割ですが、今回の地震は予想をはるかに越えていて、予防の範囲外であったという意見が一般的だと思います。しかし、阪神・淡路大震災なみのマグニチュード7.3 の地震が津波を起こすという想定をしていれば、事前と事後の予防的措置が少しは改善されたものになっていたのではないでしょうか。

 また、地震の予知についても、国の想定の対象内にあるのが、未だに東海大地震のみであるのは疑問です。1959 年の伊勢湾台風を契機に災害対策基本法が制定され、それによって中央防災会議が設置されましたが、1978 年の大規模地震対策特別措置法の制定にともなって、この防災会議は1979 年以降、東海大地震に関わる複数の専門委員会を立ち上げ、想定震源域を見直したり、被害想定を行ったりしました。しかし、東南海の領域での大地震が、一千名以上の被害者を出した1946 年の南海大地震以来、起こることなく、その間、阪神の直下型大地震とこの東日本という想定範囲外の大地震が大災害をもたらしたとなると、こうした限定的な取り組みは見直されるべきです。これによって問われるのは、国の予防的な政策の有効性です。東海大地震がフィリピン海プレートに由来するとされるなら、同じように沈み込みが指摘されている太平洋プレートによる地震が、国家的レベルで警戒されなかったのは疑問とされます。この対策の問題点は予防的措置の的はずれにあり、前記の場合は、予防的措置の前提となる認識の甘さにあります。

 このような問題点は、今回の大震災に特徴的な原発事故、つまり福島第一原子力発電所の損傷した発電施設の放射能事故においても見られます。奇しくも本号の特集は「宇宙と生命の歩みと放射線」ということで、目下の課題である原子力発電にも関係していますが、特集ではこのテーマについての科学的な知識が展開されています。ここで取り上げるのは、科学的な知識に立脚した判断です。これに関しては、当初の判断ミスがいろいろと報道されました。政府は、炉心に問題はないという、津波被害後の東京電力の説明を鵜呑みにして、アメリカ調査団の立ち入りを断ったが、その直後に水素爆発が起きたといいます。また原子炉の格納容器から蒸気の排気(ベント)を初動段階で行っていれば、水素爆発は起こっていなかったともいわれています。こうした具体的な状況での判断は初動段階に限られることなく、事故が継続する間、常に必要とされるのです。

 問題は、こうした具体的な判断が、背後に控えたより基本的な政策的な判断から影響を受けていなかったかということです。つまり、事故当初にアメリカは調査団の派遣を申し入れたが、この調査団が廃炉を前提として助言を行おうという姿勢で臨んできたため、これを是認しない東京電力としては調査を受け入れられなかったとか、格納容器からの排気を行ってしまうと、排気することはありえないと言い続けてきた国会答弁などに反することになってまずいとか、そうした判断が科学的に合理的と考えられる措置を斥けたのではないかといった問題です。こうした背後にある判断は報道の行間を読むような形でしか一般には伝わってきません。しかし、より根本にあるこのような判断、基本的な姿勢を問わないかぎり、具体的な状況判断の誤りは是正されることはないように思えます。

 ここで想起されるのは、軍事用語である「戦術」と「戦略」という言葉です。辞書の説明によれば、「戦術」とはある戦闘において戦略にしたがった具体的な戦闘力の使用法であるとされ、各戦闘を総合する戦争の全体的な作戦計画としての「戦略」と対をなしています。この戦術と戦略、とくに戦略は、たとえば販売戦略といったように、具体的な状況判断をみちびく支えとなる、より広範囲で一般的な行動計画を指すものとして、日常的にも使用されています。専門的にも、ゲーム理論が盛んに語られた頃、それの応用が戦略的思考として紹介されたことがあります(梶井厚志著:戦略的思考の技術−ゲーム理論を実践する−、中公新書、2009 年)。ここでいう「戦略」とは、自分にとっての利害が自分だけでなく、他人の行動や思惑によって決まってしまう環境において、合理的に意思決定される行動計画だとされています。そこではリスク管理にも言及されていて、戦略的リスクとは他人がどのような戦略を選択するか分からないことに由来するとされています。これを参照するなら、「戦術」は確定している目標を実現するための方策であるのに対して、「戦略」とは、他人に由来する要因を考慮して目標そのものの設定をも含む策略を意味することになります。

 このように使用される「戦略」が政策決定に関連づけられると、よりいっそう前述の原発事故に関連した政策判断に当てはめやすくなります。本誌の菅原努前編集代表は晩年、こうした戦略的思考に興味をもたれていましたが、そのことは、本誌20 巻4 号(2007 年12 月1 日発行)のEditorial「イノベーション再訪」から知ることができます。そこでの論述は、サプリメントと医薬品の行政的な区分が機能性食品というイノベーションの障害になっているという現状から出発し、そこから話題は、それを打破するために当時の安倍首相のもとに設置された「イノベーション25 戦略会議」へと展開してゆきます。ここで「戦略」が大いに注目され、その意味するところについて、文献を参照しながら説明されています。その要点は、戦略が具体的には省庁間の利害対立、一般的には政策決定の過程での根本的な方針の対立、こうした対立を越えた行動計画を意味しているということです。実際問題はどうあれ、戦略会議が目指すのは、利害対立の現実に目をそむけることなく、膠着状態に陥った行政の現実を打開するための方策の決定であり、そこでは戦略的思考が駆使されるはずです。

 しかしながら、問題は、日本人にとって対立を越えた政策を見出す戦略的思考が不得意だということにあります。前掲のEditorial で、菅原前編集代表は温熱療法との関係で、「患者のためにあらゆる可能性を考えてみる、そのときには自分の専門の枠を外すぐらいのことはすべきでないでしょうか。古い壁はなかなか破れそうにありません」と述べておられます。ここでいわれている「専門」は、直接的には温熱療法との関連で、それを希望する患者の願いを斥けた外科医の専門を指します。しかし、主題に関わる「専門」は政策決定における縦割りの省庁のことです。しかも、重要な政策決定はつねに戦略的思考を必要としています。

 以上の次第で、たとえば今回の原発事故に対する対応は、具体的なレベルではあれ、こうした政策決定のひとつです。その初動的措置について、原子炉の破損した電源装置に対する最善の対処方法を、単純に科学技術的な根拠から策定するなら、それは戦術的な政策決定になります。しかし、もしそうした対処方法が前述のような一種の政治的判断によって抑圧されたとすれば、それによって本来なさるべき戦略的思考が排除されたといえます。

 戦略的思考の立場は政治的判断を否定するというものではなく、さまざまな分野に由来する並立した判断を高次の次元で比較勘案して、もっとも合理的な政策決定を導こうというものです。それを否定するのは、思考の中止であり、抑圧的な独断です。

 菅原前編集代表は亡くなられる直前まで、戦略的思考に興味をもたれていたようです。私は、先生から読んでみるようにと託された一冊の書物を、先生の没後に人づてに頂きました。それは、堀江則雄著:ユーラシア胎動−ロシア・中国・中央アジア−、岩波新書(2010 年)でしたが、当初は、私がその少しまえにロシアを訪問したので、ロシアの現代事情を知るために読むべしとの思いで渡されたのかと考えました。しかし、託された事情を知るために周りの方々からいろいろと情報を集めるうちに、先生のお考えを知ることができるものがありました。それはある方へのE メール(2010 年9 月6 日付)ですが、そこでは、中国が国境に関してあれほど紛争を繰り返していたインドとロシアとの間で協定を結んだという事実に注目され、日本の立ち遅れの現実を嘆かれていたのでした。そして、その新書本はそれらの国境協定を詳細に説明しており、そうした協定がまさに「戦略的選択」の結果であり、「戦略的パートナーシップ」の形成であると説明されているのでした。ここでの戦略的思考は外交政策に関係しています。しかし、その要点は一定の戦術的判断が他の戦術的判断と対立して膠着状態あるいは闘争状態に陥ったときに、それら戦術的判断を踏まえつつ、戦略的思考によってより高次の政策決定を導き、それによって事態を進展させるということです。

 冒頭で取り上げた地震の予知に関しても、この戦略的思考に関連づけて捉えることができます。周辺海底のプレートが日本列島に向けて沈み込むという説が有力で、それに基づいてフィリピン海プレートの沈下の影響による東海地震が、前述のように国家として予測されていました。しかしながら、太平洋プレートに言及されていないのは、それによる地震と津波が今回のように福島県の海岸にある原子力発電所を直撃するからではないかと考えられるのです。実際、地質学者である宍倉正展氏(産業技術総合研究所)が早い段階に三陸沖での巨大地震の発生を予測していたが、行政はそれを無視したという報道もあります。もし、そういうことだとすれば、ここでも戦略的思考が政治的な判断によって押さえ込まれています。しかも日本の発電を原子力に依存させるという政治的判断は、暗黙の前提のように国策として独断的に維持されています。それに対して、戦略的思考というのは政治的判断を否定することではなく、その根拠のある見解を科学技術的な判断や長期的で環境的な判断などとつき合わせて検討することにつながります。そして、こうした戦略的な検討においては、原子力発電の優先が議論の前提となるのではなく、より根本的に日本のエネルギー消費をどのように見積もり、どのように調達するかという論点が問われることになると思います。いまや、戦略的思考を駆使することが求められています。

 


* 関西大学教授(法哲学・環境法思想)