2009.12.1
 
Books (環境と健康Vol.22 No. 4より)

 

リータ・レーヴィ・モンタルチーニ 著(齋藤ゆかり 訳)

老後も進化する脳


朝日新聞出版 ¥ 2,000 +税
2009 年3 月19 日発行 ISBN978-4-02-250559-0

 

 

 京都大学生協のブックストアの棚を見ても、「生物科学」の学術書と並んで、「脳神経科学」、「進化・生態学」を掲げたコーナーが目に付く。しかし素人には一体どの本を選んだらよいのか戸惑う。本誌の元編集顧問であった桜井芳雄さん(神経科学、実験心理学)によると、その本の著者がどれほどの原論文を発表しているかで見分けがつくとのことである。それほどに身と心の錯綜する脳科学分野では、2 次、3 次情報から捏造されたもっともらしいエセ科学が横行し、素人にはその真贋鑑定が難しい。一見本書の翻訳タイトルも、マスコミに人気の「進化」と「脳」を並列した怪しげなものに見える。しかし訳者あとがきによると、原題は「ぼろ上衣、袖に食らうはエースのカード」とのことで、どうも本書の和文題名はマスコミ受けのために出版社が改題したもののようで、一安心した。しかも著者は、1986 年、77 歳の喜寿の年に S. コーエンと共に「神経成長因子及び上皮細胞成長因子の発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞した現役女性脳神経科学者であり、2001 年からイタリア上院終身議員も勤めている。さらに驚くのは、本書は昨年白寿(99 歳)にして書かれた一般向け著作であり、既に著者は百寿者の仲間入りとのことで、まことに恐れ入る。

 まずプロローグで「ガリヴァー旅行記」の中に出てくる「不死人間の苦しみ」をとりあげ、老化現象がヒトにおいてドラマテイックな様相を呈する理由として、(1)寿命が長いこと、(2)損耗による器官の衰えが表面化すること、(3)社会が老齢者を疎外することを挙げている。ここで本人の科学的な証明として、精神活動だけは例外的に老年期に全く新しい能力が発揮されると断言している。それは残された無数のなぞの一つで、「生きる事をより魅力的な体験にしてくれる」との発言には重みがある。

 前段では、その謎解きから始まり、神経回路の再生と迷路の多様性が語られる。脳が思考の器官である事に異論を唱えるものはいなくなったとはいえ、その脳神経系の迷路はそれぞれ独立した集合体ではなく、個々の部分が互いに関連した生体領域であり、その集積として精神が理解されるとして、物質と精神を分離した「デカルトの誤り」(A.R. ダマシオ)を指摘している。そこには線虫やアメフラシで成功した刺激と反応(学習)のような単純な要素還元論の存在の余地は無い。神経系の最小単位であるニューロンは、感覚、運動、連合の 3 種に大別されるが、ヒトでは連合ニューロンが脳の 99.98 パーセントを占めるとのことである。すなわちヒトでは情動活動に関する「辺縁系」に比べて、思考活動に関する「新皮質」を爆発的に発達させた。その結果として生じた、この二つの部分の分離が科学技術の急速な発達をもたらし、その知が人間によって正当かつ理性的に利用されるという保証を全く与えてくれないところまで来た。特にマスコミによるその不正確な科学情報の流出が感覚系を操作し、集団ヒステリーを起こし、戦争を惹き起こすと警告している。ここでは脳と精神の関係をハードウェアとソフトウェアに対比している。ハードウェアとしては、胎児成長期での遺伝的枠組みに従ったニューロン集団の形成と生後の能動的経験(知覚)によって形成されるものに区別される。それは指揮者のいないオーケストラにも例えられ、各人が自ら音楽を変調すると共に他の演奏者の変調の影響も受けて、集団的、創造 的演奏が成立すると考える。評者は米国人を案内して訪れた東山東福寺の塔頭で明暗流尺八の合奏を体験したことがある。それぞれの異なった音色は、かつて南朝の隠密としての虚無僧の暗号として機能したかもしれない。しかしやがてバラバラの演奏が自然にたった一期のハーモニーとなったのに、客人は驚き東西文化の違いを実感していた。本書の著者の見解では、精神とは多数のニューロンの一期一会のハーモニーであり、ロボットでの精神の再現という科学万能主義には懐疑的である。著者らの神経成長因子(NGF)の発見に始まる研究によると、神経に部分的な損傷が生じると、損なわれた細胞が死に、その周辺の細胞から新に神経突起が生じて徐々に回路の活動を再生するとのことである。この再生プロセスは目立たないものの老年期にも維持されることが明らかになり、老化に伴う神経回路の再生不能の見解は覆された。

 さらにその論理的帰結として、科学的創造性と芸術的創造性の違いに言及している。科学は我々が感覚を通じて知覚する物体を対象とするが、それ自体は脳回路によって知覚され処理されようが、されまいが独自に存在している。しかし、「事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様」で、そこに科学的創造性が発揮される。しかしその精神活動の特質は特別の者に限られたものでなく、人類全てが共有するものであって、比類の無い一回限りの出来事ではない。遅かれ早かれ、他の科学者が同じ仮説を得て、実証し、同じ発見をする。しかし芸術的創造性は、感覚から得られた幻想の外見に着想を得て、何もないところから作品を作り出す一回限りの出来事である。

 本書の中段では、前段の証言として、科学者ガリレイ、数理哲学者ラッセル、芸術家としてミケランジェロやピカソなどを取り上げ、彼らの晩年の創造的活動を評価している。この中からラッセルの次の三つの発言を引用しよう。「科学的知識が大切なのは単にそれが実際的、直接的に有用であるためばかりでなく、非常に観想的な精神を刺激するからだ」。「科学技術は政府や大企業に個々人の自由で多様な発意を抑圧する可能性のある道具を提供し、日常を彩り活気付ける感情も無視して、人間を単なる素材として扱う危険な道具となりかねない」。「年をとっても、興味の対象が自分の人生の外へ広がれば広がるほど、人生の残りが気にならなくなるのだ」。

 後段では著者の人生観が述べられ、それぞれの人生を「札を伏せたカード・ゲーム」に例えている。ポーカー・ゲームでは一番強い札はエースであるが、そのゲームでは使われずに、伏せられた積み札として次回に回されるかもしれない。その魅力はもっぱら偶然とルールの組み合わせであり、ゲームに参加するものは勝利の希望を抱きながらも、大なり小なり不安を伴う感情の起伏を味わって終わる。人生ゲームにおいて最大の価値を持つ札とは、老年期において自らの知的、心理的活動を巧みに運用する能力である。ここに本書の原題に掲げられた、「ぼろ上衣の袖の中の切り札」の秘策の意味が隠されている。老年期に失うニューロンの損失も脳を構成する神経の天文学的細胞数から見れば大したことではない。それよりもその損失を補填して新生するネットワークに、「自分の限界、自らの有限性を認識しつつ、無限について考える力」に賭けたいと結んでいる。老脳の理性こそが次世代を救うかもしれないのである。

 

山岸秀夫(編集委員)