2009.6.3
 
Editorial (環境と健康Vol.22 No. 2より)


満開の桜に思う


山岸秀夫

 

 

 京都は桜の春と紅葉の秋が行楽客で賑わう。今年も祇園「都をどり」の初日の 4 月1 日にイメリタスクラブ(名誉教授のサロン)のお花見があり、鴨川べりの咲き始めのソメイヨシノを鑑賞した。ソメイヨシノは江戸時代から栽培されていた桜だが、明治初年に東京・染井村の植木屋から売り出されたのが名前の由来で、エドヒガンとオオシマザクラを交配した園芸品種である。その華麗さ故に、里桜の代表としてその後全国に分布した。しかしソメイヨシノは多少出自に差はあっても交配種のため発芽種子は出来ず、それぞれは遺伝的設計図の同じ同一個体の複製(クローン)である。ところが、どのソメイヨシノを見ても、それぞれの枝振りなど土地の環境に順応した風格を持っており、これまで全く同一の桜姿に出会ったことはない。その他に京都近郊でも、円山公園や地蔵禅院の早咲きしだれ桜、仁和寺の遅咲き御室桜、ずっと南には吉野の山桜など、桜は極めて多彩であり、そのシーズンの開花情報がインターネットや新聞紙上で日々更新されていた。それにしても多彩な観光客に迎合するかのように、寺院が多彩な人工色の照明でライトアップし、夜桜鑑賞まで行うのは頂けない。

 イメリタスクラブの入居するビルの隣に浄土宗大本山百万遍知恩寺があり、その門前には、季節ごとの人生観が張り出される。昨春は、人生の無常を桜に託して、「咲く桜 散りゆく花も みな桜」であった。この桜と共有する死生観から、生きているものが助け合う、同派の「共生き」活動が出てくる。西行法師も「ねがわくば 花のもとにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と詠んでいる。しかし科学的には、同じ「いのち」でも植物である樹木と動物を同一レベルで考える事には無理がある。一般的には植物の開花は、そこに新しい「いのち」(種子)の誕生を予告するシグナルであり、散る花の死は種子誕生の露払いである。

 科学的には花は茎葉の変形と考えられるが、花の後に萌え出る若芽からの緑葉も、秋には自然老化の過程で細胞の葉緑素が分解して他の色素が表出し、その美しい紅葉が人々の感動を呼んでいる。人々は散りゆく紅葉にも人生の無常を託すのである。しかしここでも科学的には問題がある。細胞が老化過程にある紅葉ではむしろ代謝は活発であり、新しい色素を合成して蓄積すると共に貯蔵した養分を可溶化して新しい組織に運び出している。そして散りゆく紅葉(死)の後には、翌春の新芽(誕生)が準備されている。ここでの「生」は「死」と「誕生」を円環的につなぐ物語である。

 樹木(草本植物と異なり、二次肥大成長をする種子植物の総称)を構成する基本軸は上下と内外の 2 軸である。地上部(上)は枝幹(茎)と葉からなり太陽エネルギーを吸収し、地下部(下)は地上部とほぼ同寸の根で天然の雨水と無機物を土から吸収している。幹は水分や養分の通路で、外周に沿って養分を運ぶ師部、その内側に水分を運ぶ道管(または仮道管)を含む木部がある。その間に形成層とよばれる分裂組織があって内外両側に肥大成長し、内部の木部組織が毎年積み重なって幹は年輪を刻んで太くなる。春の花、夏の緑葉、秋の紅葉は、それぞれの樹木(個体のいのち)が四季の変化をストレスとして受け止めた演出であり、その成果が年輪として記録されているのである。しかし年輪を刻んだ木部は実は過去の道管の死んだ細胞の集積である。ここでは死んだ細胞がただじっと存在する事によって樹形の強度を保ち、周りの現役細胞に四季の活動の場を与えている。木部は切り出された後もなお木材として、唐招提寺金堂大修理事業で見られたように、1200 年間も大屋根をじっと支え続けてきた。話は変わるが、昨年(2008 年)秋の第 93 回二科展で、会員の入佐美南子さんによる絵画「Existence(存在)」に引きつけられた。キャンバス全面灰色の中央に見える薄いベージュ色の抜けたような空間であった。抜けた空間の存在によって周囲の灰色が光って見えた。

 生命は約 38 億年前に海中で誕生し、最初に陸上に進出したのは植物で約5 億年前と言われている。動物はその約 1 億年後にまず昆虫が、続いて脊椎動物の両生類が陸に上がったとされている。しかし植物と動物を比べてみると姿も生き方も全く異なって見える。まず植物では地上部が 100 メートルを超えて成長するセコイアなどがあるが、最大の動物であるシロナガスクジラでもその 3 分の 1 である。また日本三大桜の一つに数えられる山梨県実相寺の山高神代桜のように樹齢二千余年を数える植物があるが、動物の長寿の代表であるカメでもせいぜい 150 年とされている。その上一番大きな違いは、植物は一生の間、自然の太陽光エネルギーを受け取り土から水を吸収し、同じ場所でじっと生活しているが、動物はエネルギー源としての餌と水を求めて移動しながら生活しているところにある。植物は動く事に無駄なエネルギーを使わず最小限のエネルギーを有効利用しながら、地球上で何億年もの時を生き抜き繁栄してきた。その対極として、現代人は動くことが出来る能力を過剰に発揮し、鳥の飛ぶ空中はもちろん深海から大気圏外宇宙空間まで進出し、右肩上がりにエネルギーを浪費してきた。この疾風怒濤の生き様は人間社会だけでなく自然環境にも多大なストレスを与えている。人は既に植物と共生する知恵を持った動物の枠を超えて、異次元の世界に踏み込んだのではなかろうか?

 本号の特集「森を見つめなおす」では、多様な「いのち」を育む世界の森が取り上げられている。熱帯雨林の焼き畑農業や温帯林の里山には、自然と共生する持続可能なヒトの生活があり、北欧の自然林にはヒトを育む「癒し」の場がある。またヒトの寿命を超えて存在する大木はしばしば神木として崇められ、「山川草木悉皆仏性」の自然神信仰を生み、自然環境が「ありがたいもの」として保護されてきた。なお本号トピックスでは、「大量消費社会から縮小社会へ」が取り上げられている。今やヒトは本来の動物の枠組みを意識して、植物の「じっとしているという知恵」に学び、右肩上がりの成長神話と決別する時が来たのではあるまいか?本号サロン談義では、イメリタスクラブ現役最長老の岡本道雄元京大総長から最終回として前世紀を回顧する投稿があった。本誌前号(22 巻 1 号)特集では、本庄巖京大名誉教授が「医療と日本文化」について論じられている。社会が健康長寿を目指して働く高齢者の知恵を再活用(リサイクル)し、その語り部の物語が若者に生きがいを与えるような、持続可能な世代の共生が実現するのを期待したい。