2008.12.4
 
Editorial (環境と健康Vol.21 No. 3より)


不特定多数の者とは


菅原 努*

 

 

 私がこの言葉に気をつけるようになったのは、大分前のことですが日本でノーベル賞を初めて受賞された湯川博士を記念して作られた湯川記念財団の評議員をしていた時の話です。当時この財団は当然寄付に対して免税措置をうけられる指定を受けていました。ところがその会議で問題になったのは、財政当局が、この財団の行っている事業は、素粒子研究者のみを対象としており、それは公益法人の目指す「不特定かつ多数の者の利益」に繋がらない。従ってその免税措置を取り消すということでした。私たちが考えれば、素粒子の研究は学術研究の一つであり、それは長い目でみれば何れ世界の人々の福祉に役立ちそうなものです。でも財政当局に言わせれば、「寄付金の直接の恩恵に浴するのは素粒子研究者グループに限られている。それは不特定多数ではない」という説明でした。細かい点は、私の記憶違いがあるかも知れませんが、わたしの頭にはこのようにして「不特定多数」という言葉が浸み込みました。私も財団の理事長をしているものですから、何か財団の事業を計画する度に、それは「不特定多数を目指しているか」と気にしています。

 さて、この「不特定多数」が曲者です。広辞苑によればもっと分かりやすい説明があるかとおもいましたが、そうもいきません。「公益:国家または社会公共の利益、広く世人を益すること」と書かれています。これも利益を受ける対象が漠然としています。むしろそれを法律用語にすれば不特定多数になると言われそうです。でも政府の方でもさすがにこれだけでは問題があると思っているようで、今度改正になる公益法人制度の解説のなかに、以下のような説明があります。

 

Q:新制度の「公益目的事業」とはどのようなものでしょうか。

A:新制度の「公益目的事業」は、公益法人認定法の別表(略)に掲げる種類の事業であって不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するものをいいます。(中略)「不特定かつ多数の者の利益」といえるためには、その事業により提供される財・サービス等の直接の受益者が特定の範囲のものに限られず、かつ、受益者の数が多くなければなりませんが、たとえば、まだ数人の患者しか発見されていない難病の研究を行う事業のように、直接の受益者の範囲が限られていたとしても公益目的事業と認めることが適当と考えられる事業もあります。(以下略)

 

 ここでは直接の受益者の範囲と数が問題にされていますが、一般に学術研究は、何段階かを経て間接の受益者を生むものです。例えば最近の医学では Translational Research といって、基礎研究の成果をいかに臨床の現場で生かすかが問題になっていますが、その道は必ずしも平坦ではありません。でも受益者は初めの事業からは遥かに遠いところに居ることは間違いありません。また慈善事業のように対象が多数であるとしても限定された者である場合もあります。最近では科学者にも情報公開が求められていますから、それによって公開すれば公共の利益に繋がると思いますが、それは上の定義でうまく説明できるのでしょうか。今度の改正ではその判断は、「民間有識者からなる国および都道府県の合議制の機関において、個々の事業に対する具体的な事実関係に即して、一つ一つ丁寧に議論を尽くして検討されることになります」と説明されています。具体的な事実関係とはどの程度詳細なことを意味するのか分かりませんが、細かく見れば見るほど正確になると思い込んでいる、逆に言えば大局を見誤る可能性を考えない、日本人の悪い癖が出ているように思えてなりません。この点は最近出版された中根千枝東大名誉教授の「法的規制と集団的許容度」(学術の動向 2008/6、p.92-100)で、日本の社会と他の諸社会との比較で強調されています。何故こんなに不祥事が多発するのか。そのもとは日本の閉鎖性による小集団の機能の問題にあるとして、それを他の諸社会と比較をしておられます。その一部を以下にご紹介しましょう。

 日本の法規制、ルールというものは諸外国のルールに比して、非常に細かいところまで及んでいます。彼らは余りに細かいところに拘泥して考えるものですから、社会の実体の動きから離れたり、あるいは大きなスケールで全体を見ることができないほどです。諸外国の規制は、むしろ大きな集団を対象としてつくられております。

 実際、イギリスとかアメリカなどアングロサクソン系の社会とか、あるいは中国とかインドで生活して見ますと、日本の場合よりずっと自由さを感じるものです。このアングロサクソン系の社会については、多くの方がご存知でしょうが、中国やインドというと、いろいろな特殊なことがあって、生活しにくいと思われる点があると思いますが、例えば中国では政治的な圧力を感じますが、その規制というものがほとんど政治的と言いますか、行政的な意味にあるわけで、そのほかの点については、自分たちの考えの披瀝などというものは、非常に自由だということが言えます。インドについてもカースト制があっても、それは普遍的、基本的なものに限られ、個人の思考の開陳まで規制するものではない。

 この中根さんのお話のあとの討論で、ここで取り上げたと同じく、「公益法人の法的規制について政府側の関係者の人たちが学術に関しても、何でも縛りましょうという法律の進め方をしているのではないか」という疑問が出されています。

 私が一番心配するのは財政当局の圧力で、出来るだけ免税措置を取らせないように、「何とか理屈をこねて、それは不特定多数の利益になっていない」と決め付けられることです。私には前の湯川記念財団での思い出が頭から離れないのです。財団法人のことなど他人事だと思わないで、もっとこの問題に関心を持って頂きたいのです。それでなくても学術に対する寄付がなかなか進まない我が国です。一つ一つ丁寧になどという言葉に惑わされてはなりません。中根さんも指摘されておられるように、細かいところに熱中して大局を忘れかねない日本人の悪癖に十分注意したいものです。

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)