2008.3.1
 
Editorial (環境と健康Vol.21 No. 1より)


マウスとヒト


菅原 努* ・渡邉正己**

 

 

 私たちが「マウスとヒト」という題の文章を初めて見たのは野村大成教授(当時大阪大学)が、マウスを使って親に放射線を照射するとその子供のがんが増えるという論文を発表したのに対する世間からの反応に対する反論だったと思います。ちょうどイギリスのセラフィールドで、原子力施設で働いていた人の子供に白血病が増えているという論文が出され、それの解釈について議論が分かれていたのです。それの賛成派はちょうど発表された野村教授の論文のそれを支持するものとして引用しました。これに対する野村教授の回答がこの「マウスとヒト」というNature に書かれた論文です。多分「マウスの実験での線量はヒトで問題になっている線量に比べて遙かに大きいし、いろんな条件が違うのでマウスのデータをそのままヒトのデータの解釈に使うのは飛躍がありすぎる」というのがその趣旨ではなかったかと思います。

 最近ではがん治療の領域で、マウスのがんを治せても、なかなかヒトのがんは治せないという実情から、がん治療研究におけるマウス(実験動物一般)の意義が疑問視されていて、アメリカでは一つの研究課題になっていると聞きます(Nature 442, 735, 2006)(本誌19 巻4 号 423 頁 Random Scope)。実は私たち発がん研究をしている立場でも、実験動物ことにマウスを含むげっし類の細胞は試験管内で比較的に簡単にがん化(トランスフォーム)するのに、ヒトの細胞は容易に悪性化しないので困っています。これはもう私たちが 20 年以上検討してきている難しい課題です。マウスとヒトとは、まだ私たちの知らない何かが違うというのが現在の結論です。

 ところが驚いたのは、昨年の11 月に発表された山中伸也京大教授の発表です。1、2 年前にマウスの細胞を使って、成熟細胞を万能幹細胞に変える実験に成功したときに Nature(442, 11, 2006)はその報告を紹介し、それに「ホームランかもしれない」という見出しをつけていました。その意味はマウスでの成功はヒトでの成功に結び付くかに未だ確信が持てなかったからだと思います。当然ご本人はそのことはよくご承知で、その後ヒトでの可能性に全勢力を注がれたようです。そうして見事にヒトでも同じことができることを証明されたのです。この手法の実用化への期待については私たちも人後に落ちるものでもありませんが、細胞の悪性化を研究してきたものとしては、これは大いに考えるべき問題だと思います。

 ひょっとすると私たちは何か思い違いをしているのではないかとも思えます。というのは、細胞分化もがん化も同じような遺伝子の発現変化(突然変異も含めて)と思っていたのが間違いではではないかということです。

 上述の通り、マウス細胞は、試験管内で容易に無限増殖能を獲得し、造腫瘍性を獲得するのに反し、ヒト細胞ではそうなりません。しかし、マウスもヒトも個体レベルでは、かなり高頻度に発がんします。この矛盾は、実験動物は純系なので雑種のヒトに比べ突然変異が起こりやすいから生ずるという説明がされることもあるのですが、培養細胞の体細胞突然変異の起こしやすさはマウスでもヒトでもほとんど違いはなく、かつ、細胞がん化に比べると数百分の1 の頻度なのです。ヒトとマウスは細胞がん化の感受性だけが全く異なるのです。その理由として、細胞がん化は、突然変異を生ずる遺伝子変異によって進行するものではなく、非遺伝的(エピジェネティック)な現象が支配していると考えたらどうでしょうか。このエピジェネティック制御の仕組みがマウスとヒトで全く異なるのではないでしょうか?もっとも、このエピジェネティック制御の存在は、かなり以前から知られ、DNA の塩基修飾などによる形質発現の乱れなどの関与が指摘されていますが、それだけでは、前述した細胞がん化の矛盾を説明することができません。がんは、活発な細胞分裂能を持つことが特徴ですが、その性質は、生命が生きるために必須な能力です。従って最近注目されている細胞増殖に関する標的遺伝子産物を狙い打ちしても、しばらくするとがん細胞はそれをすり抜けてまた増殖を始め、再発することが少なくないようです。従って、これからのがん研究は、がんになることが異常ではなく、ヒトが40、50 歳になるまでがんにならないことが異常であるというくらいの発想の転換が重要ではないでしょうか?そのためには、生命に共通した DNA に仕組まれた制御の仕組みとは違った制御の仕組みがヒト細胞とマウス細胞で見られているのではないでしょうか?

 ヒトとマウスは何が違うのでしょうか? 20 世紀の半ばに、アメリカのクライバーが生物の代謝率は、ほ乳類に限らず鳥類、は虫類、魚類、昆虫、樹木、果ては単細胞生物まで共通して体重の3/4 乗に比例することを発見しました。この法則は、『クライバーの法則』と呼ばれ、生物学に置ける数少ない普遍的法則と言われています。マウスとヒトの細胞を比べるとマウスの細胞もヒトの細胞も形やサイズはほとんど同じでありながら、マウス細胞が 1 分間あたりに消費する酸素と栄養物はヒト細胞の 7 倍程大きいことが実験的に確かめられています。マウスの細胞は 7 倍の速さでタンパクを作り、7 倍の塩を細胞から汲みだし、7 倍の速さで栄養分を取り込まねばなりませんので7 倍のエネルギーを作り出さねばなりません。事実、ミトコンドリアの機能もこの法則に従っていることが判っています。ミトコンドリアは、多細胞生物がその巧妙な構造と機能を維持するために必須な分化、免疫、アポトーシスなどで中心的役割を果たしています。マウス細胞とヒト細胞ではその能力が根本的に異なっていることもがんと戦うために考慮せねばならないことでしょう。

 がんは、私たちが健やかに天命を全うするために最大の関心事ですから、がん研究がブレイクスルーするためには、これまで以上にマウスとヒトの違いを念頭に置いて取り組まねばならないでしょう。この点から考えると、がんは思ったより遥かに難物で、なかなか予想通りにその制圧ができないのも、そのせいかも知れません。人工多能性幹細胞(iPS 細胞)の成功を見るにつけ、かえってがんの難しさを思ったのは私たちだけでしょうか。

 


 *(財)慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長、
京都大学名誉教授(放射線基礎医学)

 **京都大学原子炉実験所教授(放射線生物学)