2006.9.2
 
Editorial (環境と健康Vol.19 No. 3より)


がん対策法が本当に患者のためになるには


菅原 努

 

 

 2006年6月8日の新聞は「がん対策法成立へ:与党と民主案一本化で合意――医療の質底上げ期待」という見出しでがん対策の前進を報じています。説明では;

 “修正案は、(1)がん研究の推進(2)がん医療の質の向上(3)患者の居住域にかかわらず適切な医療が受けられる体制の整備――などを基本理念として明記したうえで、それを実現するためのがん対策推進基本計画の策定を国に求める内容だ。

 民主党案の内容を取り込み、がん患者や医療関係者、有識者らで作る「がん対策推進協議会」を厚生労働省に設置し、基本計画策定に反映させる仕組みを盛り込んだ。一方、民主党案の柱になっていた、がん患者の治療経過などのデータを一元的に登録・管理する「がん登録制度」の創設は、与党から「プライバシー侵害になりかねない」と慎重論が相次ぎ、民主党も法案成立を優先する姿勢を示したため、修正案では見送られた。”

 これは昨年から盛り上がりをみせていたがん患者大集合などの患者の動きに刺激されてのものと考えられますが、それでは本当にがん患者のためになる制度になるでしょうか。この記事によると、それはがん対策推進協議会に依存することになるようですが、この基本理念を全うするためにはがん罹患率を知るためのがん登録がどうしても必要だということを強調したいと思います。がん研究の推進はすでに対がん10ケ年計画が3次まで進んでいるはずですが、今度の更なる推進の目標は何ですか。その一つはがん予防でなければならないでしょう。それにはがん罹患率がどのように変化してきているかが必要ですし、地域差も罹患率と死亡率とを比較することで初めて確認できるのではないでしょうか。アメリカではがん研究を推進する最初にがん登録制度を作ったことはご承知のとおりです。そして1990年ころにがん研究所長が、長年の研究にもかかわらずがん死亡が計画のように減少しないことで議会で追及されたことをご承知ですか。

 もし我が国でもがん登録制度があり、それを使ってがんのモニタリングが行われていたら、今のアスベストの問題も、中皮腫がある地域に集中してみられるということで、早くみつかり、こんなに沢山の人が犠牲になる前に防止できたのではないでしょうか。ダイオキシンのときにも焼却場の近くでがんが増えているのではないかと不安を持つ人が少なくなかったようですが、登録制度が確立されておれば、いたずらな不安は防げたはずです。もちろんこの場合は増加は認められないというデータになり、その解釈をめぐってまた議論があるでしょうが。

 その後新聞にもこのがん対策法についての社説などがみられるようになりました。そこにはこの私と同じようなことをいっているものもあります。例えば2006年6月19日の読売新聞の社説「がん対策法:患者を難民にしないために」には次のような一節があります。

 “がん患者の実態を把握するため「がん登録」の体制作りも急務だ。どこで、どんな患者が発病しているのか。検診や治療の効旺は上がっているのか。それを評価するためにも必須のものだ。(中略)

 アスベスト(石綿)が主因となる中皮腫の多発も、登録制度があれば、もっと早く把握できた、との指摘もある。”

 これは私と同じことをいっているのですが、私はここで一つ大きなことを見逃していることに気がつきました。それはアスベストのことが新聞を賑わしたころの記事です。アスベストの生産の年次推移と中皮腫による死亡数との関係の図や、工場周辺の中皮腫患者の分布図です。このようなものは登録がなくても作ろうと思えばできるのです。ただ誰もそのような統計的な監視をせず、もししてもそれを行政に反映させるシステムがないのです。このようなシステムを集団モニタリングといいますが、このような疾病監視システムが先ず必要です。アメリカではこれを行なうのがCDCです。中国でも我々が関係している放射線関係の研究所が、改組にあたってこのアメリカ型のCDCを目指すといっています。プライバシーの議論も患者個人のそれと社会の健全性とを両にらみで議論して欲しいものです。

 情報開示については、最近病院で自分のところの治療成績を5年生存率などで示しているところがあるようです。そのこと自身はよいとして、そのために患者が選択されていないかが問題になります。むしろ病院ごとではなく地域として比較することが、本当の患者のためではないかでしょうか。最近もこんなことがありました。私の知人がある病院を紹介してもらえないかと頼んでこられたのです。話を聞いてみると、知人の母上ががんでいまある病院に入院中だが、インターネットで調べるとお願いしている病院の治療成績の方が今の病院よりはるかによいようであるから、そちらに移りたいということなのです。私はこれは問題だと思いました。統計の数字と個人の治療とは直結するとは考えにくいし、その数値に期待して転院して必ずしもうまくいくとは思えません。仕方がないので、セカンドオピニオンを聞くという意味での紹介をすることにしました。どうやら患者さんも情報に踊らされようです。薬の情報も国際的な製薬大企業に踊らされていないでしょうか。イレッサを学会までいって宣伝して、副作用を予告しなかったために犠牲者を出したことを忘れてはならないと思います。

 もう一つ気になるのはこのがん対策法の研究の推進の方向です。昨年のがん治療学会の記録としてそこでの特腹講演などを入れたCDが送られてきました。そのなかに大野竜三愛知がんセンター名誉総長の「21世紀のがん治療・造血器腫瘍からの教訓」というのがありました。その冒頭で愛知がんセンターでのがんの5年生存率の推移を示す図が最初に出てきます。そしてそれが次第に向上してきたが最近60%の手前で固定して伸び悩んでいる。これを何とか伸ばさなければならない、と主張されていました。でも私はこれを聞いたとたんに、がん対策で対象になるのは5年生存が得られる60%だけではなく、がん患者全部ではないか。残りの40%のQOLを如何に高めるかを忘れてもらっては困る、と感じたのです。この40%ががん難民になっていないでしょうか。確かに痛みをとることについては、進歩がみられます。しかし、全身の衰弱(がん悪疫質)の改善や治療への希望などの心の支えなどを帳じて患者さんのQOLの向上などがハイパーサーミアを帳じて得られたという報告を聞くと、まだまだこの方蔓に研究の必要性と可能性が残されていることを感じるのです。科学的な研究は大事ですが、科学はそれでできること、考えられることしかしません。

 この講演でもう一つ気になるのは、白血病の治療をモデルにしてがん治療を考えようという姿勢です。私に言わすれば、白血病は特殊ながんです。むしろ固形がんが白血病と如何に異なるかの検討から始めるべきで、白血病をモデルにしてはなりません。白血病では分子標的薬がかなり成旺を挙げています。しかし、むしろこれを固形腫瘍と比べて特殊なケースと考えるか、この考えをそのまま延長することで固形がんも対応できると考えるかが、分かれ道だと思います。もちろん今の製薬企業の人たちはこれこそ進むべき道だと主張します。しかし、これに対して固形腫瘍は複雑系でシステムとして考えなければならないという強い批判があることを忘れてはならないと思います。しかも最後にこれからのがん治療には分子標的薬を中心に足らないところを従来の手術、放射線、化学療法などを併用してということで、温熱療法という考えが出てきません。どうして一時あれだけ期待した方法をそんなに簡単に諦めるのでしょうか。がんの原因ではなく、できあがったがんの特徴として温熱感受性が高いことが認められます。正常温度から5℃唖上げると生体反応がどう変わるか。それが正常細胞と腫瘍細胞とでどう変わるか。何故もっと関心が持てないのでしょうか。これこそがんという複雑系への一つの介入法だと思うのですが。加温することに方法論的にいろいろの困難があるとしても、今、分子標的薬を求める努力をそれにも注ぐべきではないでしょうか。21世紀の治療として新しい道を求めていたのではないのですか。