2001.1.1
 
「環境と健康」Vol.13 No.6 Topics

高自然放射線地域住民の健康調査(中国1979−95)
菅原 努
 

5. 考察

  高自然放射線地域というのが世界の幾つかの地域にありそこに何世代にもわたって人々が支障なく生活しているということは、放射線生物学の代表的な教科書であるEric Hallの“Radiobiology for the Radiologist”1994年版にも書かれています。ただブラジルの海岸地方インドのケララ地方などが書かれているのに、どういう訳か中国のことは書かれていません。しかし、同じ1994年の国連科学委員会の報告書「放射線発がんの疫学研究」には中国のことが紹介されていますが、残念ながらこの日中共同研究を始める前の1970年から1986年までの癌死亡率などしかありません。間もなく出版される同じ委員会報告2000年には1990年までのデータが掲載される予定です。今度のわれわれの報告はこれに間に合わず残念でしたが、これから丁度放射線防護体系の見直しが始まろうとしているようですので、この報告をもとにわれわれも大いに論を張りたいと思っています。

 先ずこの報告では住民の一人一人についての線量推定のことを少し詳しく書きましたが、これは原爆実験や原子炉事故による環境の汚染のときに、汚染地の放射線線量だけで論じる研究者が多いのですが、ヒトの健康を論じる以上集団の個々のヒトの線量を把握することが必要で、それは決して簡単なことではないことを理解して欲しかったからです。

 高自然放射線地域の住民にがん死亡率の増加は見られないと言っても、ある程度のバラツキは否定出来ないので、有意に低下していると言えない以上、増加しないと言い切ることは原理的に出来ません。今の段階で言えることは、増加はあるとしても国際放射線防護委員会などの予測よりは低そうだ、ということです。これ以上のことを言う為には、生物学的な裏付けが必要です。そこで私が強調したいのは、染色体研究のところで述べました不安定性染色体異常の増加です。これはこのような低線量率の照射でも明らかに増加しています。もしこの増加に比例してがんも増加していれば当然この調査で検出されるはずです。この見かけ上の矛盾をどう説明することが出来るかが、発がんの生物学に課された問題だと受け止めました。その為に1999年からの研究プロジェクトでは新たに放射線生物学のチームに参加をしてもらってこの問題に取り組むことにしました。その詳細は別の機会に譲りたいと思いますが、最近放射線生物学者の間では放射線によるがんは放射線の直接作用によるのではなく間接的な作用ではないかという考え方が有力になりつつあり、われわれのこのデータはそれを支持する状況証拠として有力なものになりうると考えています。

 もう一つがん死亡率の比較の上で大切なことは調査人数と調査期間を掛け合わせた人・年が大きくなるほど得られた値の信頼限界が狭くなるということです。まえに表3と4とを比較するところでもそのことが分かったかと思います。図4はこの報告にはありませんが、調査期間を1990年、1995年、さらに1998年と延長することによって得られた値(この場合は高自然放射線地域の対照地域に対する相対リスクとその信頼限界)がどのように変わるかを分かりやすく示したものです。調査対象は固定していますから人数は少しずつ減りますが、年数の増加が効いてきて信頼限界はだんだんと狭くなります。これが狭くなるほど他(例えば原爆被爆者)との比較において差が目立ってくるはずです。その為にこのような調査は長く続ける必要があるのです。

図4 調査年の延長にともなう相対リスクとその95%信頼限界の変遷

 ここでは十分な研究が出来ていませんが、最近の低線量放射線生物学のなかで特に注目されている話題に適応応答という現象があります。それは主に細胞を使った実験ですが、数cGyの放射線を予め照射しておくと、その後数時間して数Gyの照射をしたときにその影響が少なく現れるというものです。即ち初めの放射線で細胞は適応現象を現しその為に次の放射線に対して抵抗性なったと考えこれを適応応答と言っています。中国の研究者はこの高自然放射線地域の10才くらいの子供達から採血し、それに数Gyの放射線を照射して対照地域の同じ年齢の子供で同じ様なことをして染色体異常の頻度を比較したところ、高自然放射線地域のものは統計的に有意に異常の頻度が低かった、と報告しています。私達はこれは未だ予備実験の段階で、これを高自然放射線が適応応答を誘発していると結論するのには十分でないと考え、今度の報告には採用しませんでした。しかし興味のある問題として今後の展開を待つことにします。

 

謝 辞

 この研究は(財)原子力安全研究協会と(財)体質研究会との研究契約のもとに、日中の科学者の献身的な協力によってなされたものです。ここにそのことを記して感謝のしるしとします。