2002.11.1

 

藤竹 信英

 

9. 高雄 神護寺

 


 丹波の周山に通じる古い街道を外れて、清滝川の清流を渡り、急坂を五丁ばかり登りつめると、大きな自然石がひしめき群がっている石段が待ち受けている。この参道は何気なくは歩かせてくれない。自然注意を足に集中して、それと同時に心を内面にむけるのである。そう考えると、歩きにくい石段も捨てたものではない。この石段の上にある楼門をくぐると、気持ちよい平地になり、右側に寺務所、本坊、客殿があり、宝蔵があり、和気清麻呂公霊廟があり、鐘楼がある。鐘楼の横を右に登ると清麻呂公の墓になり、左側に道をとって登って行くと文覚上人の墓に達する。神護寺は清麻呂によってはじめられ、文覚によって再興された名刹である

 清麻呂は宇佐八幡に詣でて、皇位をねらう道鏡の野望をくじく神託を得たが、このときの八幡神のお告げにより、河内の国に神願寺を建てた。その一方で、清麻呂は愛宕山中にも白雲寺をはじめとする五坊を創建したのであるがそのなかの一つが高尾山寺であるという。清麻呂の没後、寺はその遺児浩世・真綱によってうけつがれ、延暦二十一年(802)には伝教大師最澄を招いて法花会を修し、南都の高僧十名をして天台の法門を講じる等、天台法門宣布の壇場となったが、弘仁元年(810)弘法大師空海が来山し鎮護国家の修法を行ない、また多くの僧らに金剛・胎蔵両部の潅頂を行なったことから、平安新仏教の道場となった。そこで、清麻呂の遺児達は和気氏の私寺的性格を格上げすることを望み、天長元年(824)河内国の神願寺を吸収併合し、神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、すべてを空海に託したのであろう。もともとこの神願寺は清麻呂が宇佐八幡の神願を果たさんがために、薬師如来を本尊として創建したが、その寺地が沙泥(しゃでい)のため道場として不適当であったことから、移されたのである。現在京都御所に近い烏丸下立売にある護王神社は元来鎮守として神護寺に祀られていたのを、明治十九年に現在の地に遷されたのである。

 なお、清麻呂公霊廟の横には明王堂があり、ここに祀られていた不動尊は、天慶二年(939)、平将門の叛乱の際、その鎮撫に遣わされ、それが今日の成田の不動尊であると伝えられている。これも往時の清麻呂公の遺徳と申すべきであろうか。この神護寺の鐘は三絶の鐘として名がある。ひびが入ったため、もはやその音色に接することはできないが、これは貞観十七年(875)の作で、銘の序詞は右少弁橘広相の作、銘文は菅原道真の父、参議是善、書は図書頭藤原敏行である。序、銘、書、の三つがいずれも当代一流の名家によるもので、三絶の鐘と呼ばれる。爾来、空海は神護寺を本拠として住房納涼房を構え、籠山すること六ヶ年、その間に潅頂堂・阿闍梨房等を建立し、真言密教寺院としての寺観を整えた。承和二年(835)に空海が亡くなると、その高弟真済は跡をついで伽藍を整備し、鎮護国家の道場とした。

 しかるに正暦五年(994)と久安五年(1149)の両度の火災によって寺は衰微する。仁安三年(1168)空海の旧跡を慕って来山した文覚上人は、寺の荒廃を嘆き、諸方に勧進して再興につとめるのである。平家物語は当時の神護寺の姿を次ぎのように嘆いている。"春は霞にたちこめられ、秋は霧にまじはり、扉は風に倒れて落葉のしたに朽ち、甍は雨露におかされて、仏壇さらにあらわなり"

 文覚の前身は遠藤武者盛遠である。盛遠は源渡の妻袈裟御前に横恋慕をし、その人妻から夫を殺してくれと頼まれてその夫を殺すが、殺してみるとそれは夫の身代りとなった袈裟だったので愕然とし、これが出家の動機となったと伝えられる。

 平家物語によると、出家した文覚は、那智の滝など全国各地の行場で荒行をつんだのち、高雄にきて神護寺の再興に奔走した。〃文覚これをいかにもして修造せんといふ大願をおこし、勧進帳をささげて、十方檀那をすすめありきける程に、或るとき院の御所法住寺殿へぞまいりたりける。〃院とは後白河法皇のことである。その法住寺殿では管弦の宴が催されていたが、文覚はその席に乱入し、神護寺復興のための寄進を強要した。いあわせた武士と格闘の末、文覚は追いたてられて罪を宣せられたが、それでも寄進を求めてやまず、暴言を止めなかった。その結果、「この法師都に置いてかなうまじ、遠流せよ」ということになり伊豆に流された。その地にて、同じく流されていた源頼朝と知り合い、天下の情勢を説いて平家討伐の兵を興すことを勧めた、といわれている。頼朝は平家を討ち滅ぼしたのとも、文覚に厚い信頼をよせ、神護寺復興のうしろ楯になった。伊豆流罪五年後、神護寺に帰った文覚は、ふたたび後白河法皇に訴え、こんどは頼朝のうしろ盾もあって荘園の寄進をうけるのに成功し、堂塔の建築も進み、寺外に出ていた寺宝「金泥両界曼茶羅」も戻って、神護寺は立派に復興を成し遂げた。

 以上に略述したように、神護寺は、空海がここを本拠としていた平安時代初期、および文覚がこれを再興した鎌倉時代初期、この二つの時期において輝かしい歴史を作っており、現在のこっている遺品もこの二つの盛時をそれぞれ記念している。今われわれは楓の大樹におおわれた静かな境内にたって歴史を偲ぶとき、空海の新知識を中心として、奈良の旧仏教に対抗した新興密教の昂揚した緊張を感じるとともに、同時にまた、豪僧文覚の熱情を思わないわけにはゆかない。神護寺という寺はそれにふさわしい風格が厳然として備わっている。

 なお文覚は、後白河法皇と源頼朝の両者に支持されて神護寺を復興し、さらに東寺、西寺の復興にも努力したが、頼朝の死後には不利な立場にたたされ、公家側から謀反の疑いで佐渡に流された。三年後には赦されて京都に帰ったのであるが、その三年後の元久二年にはふたたび対馬に流され、ついにその地で没した。鎌倉幕府と京都公家との勢力争い、また剛毅一徹な人柄に対する公家側の反感が、この神護寺中興の功労者の晩年を悲劇に追いやったといえる。金堂の背後にそそり立つ山の頂上近くに、この文覚の墓がある。墓石は五輪石塔で、その四隅に柱の礎石が残っているのは、もと覆屋があったことを示す。そして、その傍らには、鎌倉時代の石造宝珠露盤があたかも打ち捨てられたかのように横たわったままになっている。石の廃墟というものは、どれも風化が人工を自然に還しているがゆえに美しい。不羈独往、直情のゆえに淋しい末路をおくった荒法師に、いかにもふさわしく思われた。

(この項つづく:次号は寺内の仏像について