2006.8.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

52. 東山三十六峰漫歩 第二十六峰 高台寺山

 


 【 第二十六峰 】 高台寺山

 祇園、円山から清水へは高台寺道を行くがよい。築地べいや竹やぶ、四季折おりの花が咲く。古寺あり楽焼ありで、京情緒ゆたかな道である。高台寺山はこの通りの背景になっており、霊山の山麓にある文字通り高台といった山である。以前はのぼり来ると萩の篝火が木の間越しに見えるハギの名所であったが、太平洋戦争中に刈りとられて、数少なくなっている。

  護国神社参道に面してはいるが、肝心の高台寺方丈とは遠く離れて孤立して建つのが高台寺表門で、薬医門と呼ぶ。桁行三間梁間一間、切妻造、本瓦葺で加藤清正が伏見城より移したといわれ蟇股(かえるまた)には動植物の透彫がある。薬医門とは正面に見える一列の本柱と背面にある一列の控柱によって屋根を支え、棟が本柱より後に寄っている形式のものである。元来城門の一種で、薬医とは矢喰の当て字と思われる。 桃山時代の開山堂を通って東に石段を登ると霊屋(たまや)である。内部には須弥壇を設けて、左右の厨子内に秀吉・北政所の木像を安置し、北政所像下はその墓であるという。 背後の山手には傘亭と時雨亭の二つの茶室がある。 北の傘亭は宝形造茅葺で 内部は竹?(たけたるき) を放射状にして傘のように観せる。南の時雨亭は重層入母屋造茅葺の二階建の茶室で、上層の席からは城南の眺望をほしいままにする。

  高台寺北側の墓地に木下長嘯子の墓がある。彼の名は木下勝俊、秀吉の義理の甥、つまり北政所の兄、木下家定の子である。二十才で若狭小浜八万石の領主、左近衛権少将に任ぜられた。関ヶ原の合戦では東軍に属し、家康不在の伏見城を守ったが、実弟小早川秀秋が始め西軍に属していたので、仲間の守将鳥居元忠から勝俊自身の去就を疑われて、巍然たる態度を示す気概に欠けていた。そこで敢えなく城を退去して、叔母の北政所にすがるしかないという体たらくになった。一方伏見城は四万の西軍を引受けて籠城十日にして落城となり元忠は見事切腹である。後年長嘯子は小沢蘆庵あたりから「心ざま武士に似ず」と攻撃されている。

 かくして彼は東山霊山に隠棲し、藤原惺窩、林羅山、松永貞徳等と交わり、自家薬籠中の和漢の学の研鑽を積んだ。この地にあること三十余年、月を友とした悠々の日々であったが、北政所没後は洛西大原野に移住し、八十一才の生涯を終えた。侘びしい晩年だったようである。

 このあたりで一際(ひときわ)目を引くのは八坂の塔である。ところが近づいてみると五重塔が一基屹立しているだけで寺院らしい形を整えていない。その上近頃は内部の拝観もできない有様である。この寺はおそらくは古くからこの地に盤踞していた八坂氏が、氏寺として建立した四天王寺式伽藍を有する京都最古の寺院の一つと思われる。往時は寺運も盛大であったが、平安末期には衰微の運命に立ち至ったようである。現在の五重塔は永享十二年(1440)足利義教により再建されたもので、創建以来の古制を踏み、純然たる和様の復古的建築である。内部は中央に心柱を通し、四天柱のあいだを須弥壇とし、大日・釈迦・阿?(あしゅく)・宝生・弥陀の五大力尊を安置し、周囲の扉には天部の像を描いている。須弥壇の下には古い松香石製の大きな中心礎石があって、中央には三重の凹孔をつくり、一番中に舎利容器を納めた白鳳時代の様式をとどめている。

 伝えによれば天歴二年(948)、この塔が突如傾いたことがあった。すると当時隣接していた雲居寺の浄蔵貴所法印が塔に向かって祈念したところ、塔は忽ちもとに復したという。処がこの霊験談には後世尾鰭が付いてくる。一般に関西には少ない庚申信仰が絡んでいるのである。この八坂法観寺境内の片隅には日本三庚申の一とされる八坂庚申堂があった。大黒山金剛寺といい、本堂には聖徳太子御作の青面金剛、その傍らには天台の不見不聞不言の庚申三匹猿も控えている。毎年正月の初庚申には、まずコンニャクを求めて御祈祷をしてもらい、それをもち帰り病人の頭上につり下げると病気は忽ち治癒に向うという。この日の参詣人は万を越すといわれる。その庚申堂のすぐ坂上が八坂塔である。

 さてこの八坂塔を建てた大工の棟梁には頼りにならぬ息子があった。その行く末を案じた棟梁はある方法を講じてひそかに息子に授け、まもなく世を去った。しばらくして突然八坂の大塔が傾いてきた。一同なすすべとてなく右往左往の大騒ぎの時、おもむろに問題の息子が現れたのである。藁をも掴む思いで事を託することになった。息子は塔の上に登り心柱から一つの箱を探り出した。この中には庚申の本尊が納められていた。箱を心柱からとり出してしまうと、塔は自然に真っ直ぐになったという。かくて息子の一生は保証され、庚申の本尊を寺の一隅に安置したのが今の金剛寺庚申堂の始まりという。この話は今の庚申堂の位置から考えると最もらしい節もあるが、あまりにもできすぎている点も多い。先日この付近をひとめぐりした。以前とは随分様変りしていたが、八坂塔と庚申堂だけは少しも変わっていない。その古めかしい雰囲気に浸っていると、こののんびりした言い伝えがまったく似つかわしなるのは不思議である。しばらくうろうろしただけで、詮索するのは止めにして、おとなしく帰路に就いたのである。