2006.5.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

49. 東山三十六峰漫歩 第二十三峰 長楽寺山

 


 【 第二十三峰 長楽寺山(ちょうらくじやま) 】

 長楽寺山は標高僅か220mではあるが、東山三十六峰の中では数少ない独立峰の一つで、円山をはじめ双林寺山、華頂山などを麓にして、眺望をほしいままにしている。山上には将軍塚がある。山麓の長楽寺は寺伝によれば延暦年間伝教大師最澄によって創建された天台の別院と伝え、この地の景観が唐土の長楽寺に似ていることから寺名と定めたという。『今昔物語』によれば、一条天皇の御代、画師巨勢広高が当寺の新堂の壁に地獄変相図を生生しく描きあげて名を得たという。また『平家物語』には文治元年五月、建礼門院平徳子が当時の阿証房印誓を戒師として落飾され、布施として安徳天皇の直衣(のうし)を奉納されたが、寺ではこれをとして、仏前に掲げて天皇の菩提を弔った話をかかげていることから、平安時代の名刹であったことを伺わせる。散策がてら音楽堂北のなだらかな坂をのぼると山門にであう。打水でさわやかな石段を登りつめると閑雅な本堂である。いつしか都会の喧噪も消えて野鳥のさえずりが静けさを呼ぶ。境内にある建礼門院の髪を納めたという十三重石塔は訪れる人に悲しみをさそう。本堂わきの功徳(くどく)水は小さな滝をなして石組の上に落ちる。専修念仏の指導者隆寛律師は延暦寺の迫害にあい、奥州に流されたが、出発の際に、念仏を唱えたところ、この池水より忽然として蓮花が生じたという。

 本堂背後にある将軍塚を目指す途中には頼山陽一族が眠る長楽寺墓地がある。山陽はこのあたりを洛東一の景勝地と讃えた。山頂の将軍塚まではあと一息なのだが、近年その道が閉じられているのは残念である。

 将軍塚は長楽寺の後山にあり、今では青蓮院の飛地境内に含まれている。『平家物語』によれば、桓武天皇は平安遷都に当たり末代まで都を他に移すべからずとの願を込めて、高さ八尺の土偶に鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせた上で、王城鎮護のため西向きに埋めしめられた。また王城に異変あればこの塚が必ず鳴動すべしとて将軍塚と名付けられたという。一説に征夷大将軍坂上田村麻呂をかたどった武将像だともいわれる。

 この青蓮院境内には大日堂があって、山上から発掘された大日如来を安置するが、この大日如来には伝説が付いている。牛若丸が金売橘次に連れられて日岡峠に差しかかった時、兵八名を供にする、平家の将関原与一とすれちがった。与一の馬が雨上りの泥水に足を踏み入れて、その泥が牛若丸にまともに掛かったから、さあ只では収まらない。やにわに牛若丸が与一の乗馬の腹をまともに突いて、与一は落馬するなり首を刎ねられてしまった。向かってきた八名の兵も牛若丸の相手にならず忽ち全滅した。そして山科の藪の中の水溜で血刀が洗われた。今でもその場所は御陵血洗町の名を残している。馬が泥水を蹴上げた場所を今も蹴上という。斬られた主従九人の菩提を弔って石仏九体が祀られたが、蹴上の二体、将軍塚の一体の他は行方が明らかではない。鎌倉仏には違いないようである。