2005.7.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

39.頼光と四天王の鬼退治(四)土蜘蛛草紙絵巻物語

 


 ある年の神無月、二十日すぎのある日、源頼光は郎党の一人渡辺綱と共に、北山のあたりに遊行して、蓮台野に行った。頼光は三尺の太刀を佩き、綱は腹巻の鎧を着用していた。野原を歩いていると、一つの髑髏が空を飛んでいるのを見た。やがて雲の中に隠れたが、あとを尋ねて行くと、神楽丘に着いた。其処には一軒の古いあばら家があった。広い庭に足を踏み入れると、草茫々と生い茂り、もとは由ある公卿の住居と知れた。頼光の主従は崩れた中門をくぐり、綱をそのままとどめおくと、頼光は左右を顧みながら、家のほうに近づいていった。秋草が露に濡れて、袖を絞るばかりであった。頼光は簀子(すのこ)の上にあがり、あたりをきょろきょろ見回した。物音はなに一つしないで、静まりかえっていた。「これはしたり、この家は空き家な。たれもおらぬわ」、と頼光はひとりつぶやいた。頼光が、奥に踏み入ると、台所の内から、大きな息遣いが聞こえてくる。中には白髪の老婆がいた。「わらわは、この家の者。年は弐百九拾歳。すでに九代の主君に仕えましたのさ」、と答える。老婆は、抉(きじり)という道具で左右の眼をこじ開け、上の瞼を頭の方にかずいている。またで口をこじ開け、唇を大きくめくりあげ、えり首で引き結ぶ。左右の乳房は長く伸びて、膝に掛けている。まことに異様な姿であった。老婆は綿々と恨みの言葉を吐き出した。「わらわを殺してたべ。願わくば、念仏の功力(くりき)によって、弥陀三尊の来迎に会い奉らむ」。頼光は、身の毛のよだつ思いで、一歩、二歩とあとずさりした。ただならぬ様子に、綱は台所に近づいて、その場の一部始終をみたのである。やがて夕闇が迫ると、一陣の風が吹き起こる。風が激しくなると、雷鳴がとどろき、稲妻が光る。綱は、生きた心地もなかったが、いまこそ君恩に報いるときぞと、暴風雨の中を身じろぎもしないで、立っていた。頼光も度胸を据えて、その場で耳を澄ましていた。すると、にわかに大勢の異形の化け物どもが、頼光主従の前に歩み寄って来る。柱を隔てて、双方対峙する。頼光は灯火越しに化け物どもを、睨み据えた。その眼光は、まるで白毫(びゃくごう)(仏の眉間の光を放つという毛)のようであった。化け物どもは、あわてて退散した。

 こんどは、眼前に尼姿で現われたものがいる。背丈は三尺にも足らぬのに、顔は二尺もあろうかという、薄気味悪い身体つき。太く大きな眉作りをして、頬紅を赤くつけ、前歯二本を歯黒して、気味悪い笑みを浮かべ、灯台ににじり寄って、火を吹き消そうとする。その気配をうかがった頼光が、きっとにらみ据える。が、たちまちのうちに消え失せた。明け方が近づくと、足音が聞こえてくる。じっとうかがっていると、正面の障子が細めに開いたかと思うと、すぐさま閉まる。そんなことが、二度、三度くり返されるうちに、窈窕たる美女のただずまいがうかがわれた。頼光は立ち上がって障子を開いた。みると、一人の女性が歩み寄って、美しい衣装の裾を広げながら、畳の上に座った。史書に聞く楊貴妃や李夫人と競うばかりの美女であった。これは、この家のあるじが、二人を歓迎するための出迎えかと思う間に、一陣の風がさっと吹き迫る。女は、つと立ち上がり、丈なす翠の黒髪の束を片手で掻い取りながら振り向いた。灯火が顔面を照らす。その両眼は、らんらんと輝き、透き漆をそそいだようなありさまであった。

 まばゆいばかりの美しさよと驚くうちに、女性は袴の裾をさっと蹴上げた。と思うと、毬のような白雲の塊、十ばかりを次々に、頼光に投げかけた。立ちくらんだ頼光、刀を引き抜き、白雲の中の女に斬りかかる。が、忽然と女は姿を消す。刀の切っ先は、板敷を切り通して、柱の礎石を真っ二つに切り割っていた。化け物が退散すると、綱が駆けつけてきた。板敷に突きささった太刀を引き抜くと、その先は折れていた。床下一面には白い血が淀んでいる。太刀にも白血が付着している。すぐさま、頼光は綱をうながして、点々とこぼれる白血の痕を追って、化け物の行方を尋ねた。やがてたどり着いたのは、昨日の老女の部屋であった。化け物に食われたのか、老女の姿はみえない。なおも尋ねていくと、西山のあたり、大きな洞穴に行き着いた。穴の入り口一帯には、奥から白血が流れ出している。やがて綱が口を開いた。「この太刀の折れ具合をみますと、中国古代の楚国の眉間尺が、親に対する至孝のあまり、剣の先を隠し持った故事が思い出されまする。このうえは、藤の蔓を切って人形をつくり、烏帽子・直垂を脱ぎ着せて、前に立たせて進むがよいと思いまする」、と進言した。これを聞きいれた頼光は、人形を作らせ、それを押し立てて進み、四、五町にて、穴の奥に到達した。前に古い庫のような建物がある。みると、一匹の巨大な化け物が寝込んでいるではないか。大きさは二十丈あまり、まるで錦の裂(きれ)を引きかぶったような威容である。大きな頭に気を奪われて、足のほうの長さはわからない。両眼は日月のごとくに、光り輝いている。すると、にわかに大声をあげた。「ああ、苦しい。これは、どうした事ぞ。われはいま病の臥するものぞ。こうして寝転ぶも、苦しきかぎりぞ」、と言葉も終わらぬうちに、予想のごとく、白雲のなかから異様な光が発せられた。その光が、人形に当たった瞬間、人形は、ばったり倒れた。頼光が近寄ってみると、折れ失った太刀の先であった。やがて化け物は静かになった。頼光と綱は近づいて、力を合わせて化け物を引きずり出した。

 この化け物は、力強く、その巨大なさまは、巨石を動かすかのごとく骨の折れることだった。頼光は、天照大神と弓矢正八幡に祈請した。二人は巨大な化け物に取っ組んだ。はじめはまったく互角と思われたにもかかわらず、化け物はひと声残して、あおむけざまに転倒してしまった。頼光は、さっと太刀を引き抜き放つと、首を掻き斬った。綱が腹を切り開こうと駆け寄ると、腹の真ん中に深い疵の痕があるのに気付いた。それはまさしく、頼光が板敷まで切り通した時の疵痕にちがいない。

 この化け物の正体は、実に一匹の巨大な土蜘蛛であった。太刀の切り疵のあたりから、人間の首が壱千九百九拾あまり転がり出た。さらに、化け物の脇腹からは、七、八匹の小蜘蛛が、這いだしてきたのである。綱は大きな穴を掘って、その首を埋め、古家に火を放って焼き払ってしまった。

 やがて、この勲功は叡聞に達する処となり、頼光は摂津守に任ぜられ、正四位下に昇叙された。綱は丹波守に任ぜられ、正五位下に叙せられた。なお、頼光の佩刀所謂宝剣膝丸は、これ以来、その名を「蜘蛛切」と改めたという。この土蜘蛛ゆかりの地は、定かではないが、北野天満宮の境内、二の鳥居の西に位置する観音寺もその一つに数えられる。

 真言宗泉涌寺派の寺院で、一に東向観音寺とも称す。天歴年間、僧最珍の開創するところで、それは天満宮とその造立の時期を共にしている。はじめ東西両向の二堂があったが、西向の堂は早く廃絶し、東向の堂のみが残されたのである。数奇な運命を導ったものである。

 「蜘蛛塚」は、本堂の南にある巨大な五輪石塔(忌明塔)の傍らに残る、石灯籠の残欠火袋をいうのである。まったくささやかなもので、心侘しい存在ではあるが、一面、滅び行くものの趣を感じさせる。この蜘蛛塚は、一に山伏塚ともいい、もと七本松通一条上ルの「清和院」の西門前にあって、なかなか隆然とした墳丘であったといわれている。源頼光を悩ました蜘蛛の棲息した処と伝えられていたので、江戸時代には塚のそばに舞台を設け、猿楽などを演じたのであるが、その期間中には、雨が降ること多く、これは塚のたたりならん、という、いかにも京都らしい噂がかまびすしかったのである。

 「京都坊日誌」によれば、明治三十一年に塚を破却したところ、石仏、墓標・石塔・石灯籠の破損物が出土した。ここにある火袋はその時の遺物を移したものである。

 なお、背後の三基の五輪塔は、北野の東、博労町の無名古墳のもので、金売橘次の墓との説もあるが、信ずるに足ものではない。

 もう一つ別説がある。上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は船岡山の西麓、紫野十二坊町(北区)にある、真言宗智山派に属する別格本山で、九品三昧院ともいうが、一般には「十二坊」の名で知られる。

 本堂の北、塔頭真言院の墓地に、鎌倉時代作の重厚味のある高さ約2.5mの五輪石塔が目に付く。これは弘法大師の母阿刀氏の塔と伝えられ、古来肺疾患平癒祈願の信仰があるという。この塔に近い椋の老木の下に、「源頼光朝臣塚」としるした石碑がある。此処は頼光が蜘蛛を退治したところであるという伝承があり、一に、「蜘蛛塚」とも申すのである。明治初年までは塔頭宝泉院の背後にあったものを、昭和七年頃に此処に移したのである。何故、頼光、あるいは蜘蛛塚の伝説が発生したのか、その原因は明らかではないが、室町初期に作られた、「土蜘蛛草紙絵巻」によれば、渡辺綱を従えてこの蓮台野へ来た頼光が、ついに土蜘蛛を退治するという伝説によったものではないかと考えるのが妥当であろう。