2005.6.10

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

38.頼光と四天王の鬼退治(参)一乗戻橋の鬼女

 


 源家には古来、「鬚切(ひげきり)」・「膝丸(ひざまる)」なる二ふりの名剣が伝えられる。五十六代の帝、清和天皇第六の皇子を貞純親王と申し奉るが、その御子が経基六孫王。そして、その嫡子多田の満中が上野介であったとき、「源」の姓を賜わつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚があった。そこで源満中、全国に名剣を求め、筑前の国御笠郡から鍛冶の上手を召された。彼はもとより名匠であったが、そのうえ宇佐神宮に参籠して、剣の威徳を祈願された。「南無八幡大菩薩、わが悲願をこそかなえたまえ。源満中依頼の太刀を、世の名剣となして、源氏の武運を長くお守り下さるべし」。

 やがて都にのぼり、最上の鉄を求めて、六十日間鍛えに鍛えて、二振りの太刀を作った。いずれも名剣にして、一つは人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切りければ、これを、「鬚切」、いま一つは、両膝を薙ぎ切りしによって、「膝丸」と名付けられた。この二振りの名剣は、満中の嫡子摂津守頼光につたえられた。

 頼光の郎党に「渡辺源四郎綱」というつわものがいた。武蔵国箕田(みた)に生れたので、「箕田の源四」とも呼ばれた。この渡辺綱がある時、主君頼光の使いとして、一条大宮におもむくことになった。折から夜も更けていたので、主君の命により、「鬚切」の太刀を身に帯びて、馬にうち乗り、一条堀川の戻橋(もどりばし)に差し掛った。

 この戻橋は一条通の堀川に架かる小橋にすぎないが、平安遷都以来、その位置が変っていないという点で重要視される名橋である。また平安京の東西を走る大路のうち、いちばん北にあるのが一条大路であるから、洛中と洛外とを分ける役割も果たしていた。これより下流の堀川には多くの橋が架けられていたが、この戻橋のような感傷を呼ぶことはなかった。

  いくつにも 帰るさまのみ 渡ればや 
          戻橋とは人のいうらむ
                  和泉式部

 「帰る」、「戻る」、が特別に意識されている橋だから、誰言うとなく戻橋と呼ばれるようになったのだろうが、その意識を前提としてひとつの伝説が生まれた。

 延喜十八年(918)十二月、戻橋の上を葬送の列が通っていた。博士兼大学、三善清行の葬列である。官吏として有能、詩人としても評価されていた清行の葬儀を見送る人々が橋の前後につめかけていた。

 そこへ、息せききって駆けつけた男がある。紀伊の熊野で修行していた、清行の息子のである。父の柩にとりすがり、一日早く戻れば生きている父に会えたものをと、悲嘆の涙にかきくれた。そのとき、俄に天が真黒くなり、雷光が走り、轟音がとどろいた。人々を驚かせたのは、雷光のなかに、柩の蓋があき、清行がむっくりと起き上がって、「浄蔵よ、浄蔵よ」と叫び、二人がしっかと抱き合った光景である。

 ときならぬ冬の雷光のなかの、一瞬の幻であったのかもしれない。だが、たとえ幻でもいい、幻のなかに見た光景を信じたいと、その場にいた人々は思い、それを伝えた。それが戻橋の名の由来であると『撰集抄』は説明する。

 橋の上での占い、「」もそうした橋の神秘感の上にたっている。橋ならどの橋でもよいのかというと、やはり戻橋のように、人々が格別の感情を寄せる橋でなくては威厳がでないのである。

 この橋占のことは、『源平盛衰記』巻十に見える。高倉天皇中宮建礼門院の御出産がこじれ、建礼門院の母二位殿おおいに心苦しくて、この橋の東詰に車を立て、占を問うたという。すると十二人の童子があらわれきて、手をうちならしながら橋を渡り、「(ねどこ)は何榻、君の床、八重の汐路はなよせ床」とうたった。生まれた皇子は後の安徳天皇で、西海でなくなられることは、すでに、この歌に予言されているという。この十二人の童子とは、安倍晴明が橋の下に封じておいた十二神将の化身であろうといわれた。

 その他、戻橋の名をきらって、縁談に関与する人々は決してこの橋を渡らなかったのであるが、その反対に、第二次世界大戦中には、絶えることのない応召兵とその家族は、無事帰還をねがって、大いにこの橋をたよりにしたのである。

 話は元に戻って、渡辺綱が戻橋に差し掛かったとき、あまりの、まことにきよげなる女房が、紅梅の薄衣の袖の中に、法華経を持ち、を結び、守袋を掛け、ただ一人で歩いていた。綱が追い越していくのをみて、「夜も更けて恐ろしゅうございます。お送り頂けませぬか」。とよりすがらんばかりにたのんできた。こんな夜更けに、少しおかしいと、綱は思ったが、騎士道精神にみちた武士のこと、馬より飛んで降り、「否やはございません」、とばかりにいだきかかえて馬に乗せ、自らも鞍の後ろにうち乗って、堀川の東を南へ進んだが、女房が申すよう、「わたくしの住まいは都の外。それでも送りたもうや」。綱は女房の言うままに、「いずこなりと送りまいらせ候べし」。と答えた。

 その時、女房、さっと形相を変え、怖ろしげな鬼の姿となり、「わが行くところは愛宕山なるぞ」というやいなや、綱のをひっつかんで、西北天へ向かって飛行した。

 綱は少しもさわがず、「鬚切」の太刀を抜いて、空ざまに鬼の腕を切り落とすと同時に、綱は北野天満宮の社の回廊の上に落ちた。綱は自分の髻をつかんだ鬼の手を、つくづく眺めると、女房の姿のときは、まるで雪のと思ったのに、それが、色黒く毛はごわごわと渦巻いて、ちぢれていたのである。

 綱はこの手を持参して主君頼光に奉った。頼光はこれをひそかに朱の唐櫃に収め置かれたが、それからというもの、夜な夜な恐ろしい夢ばかりごらんになるので、寮の夢解き博士に、この夢について質されたところ、七日の間、厳重に御慎しみなされとの占いであった。

 そこで頼光は堅く門戸を閉じて、七重にを引き、東・西・南・北の各門に十二人の番衆を配置して、魔物の侵入を防ぐため、毎夜宿直の者に、「の矢」を射させた。 蟇目の矢とはに似るが、を付けず、木の矢じりを中空にして、穴をうがち、高音を発するので魔よけに使用したものである。こうして物忌がすでに七日に及んだ夜のこと、はるか河内国高安の里から、頼光の義母がたずねてきた。まだ物忌の最中ではあったが、まさしく老母が、わざわざ対面のためにおいでになったのだからと、やむを得ず門を開き、家に内へと案内なされ、よもすがらの酒宴に及ばれた。頼光は酔いについ気を許して、化け物の二の腕を切り落とした次第を話し始められたところ、老母は盃を前に差し置いて、「なんとおそろしいことよ。うちの近くの人たちも、化け物にさらわれて、子は親に先立ち、婦は夫と別れたものがおりまする。さても、いかなる化け物か、その手がみたいものだ」。と所望された。頼光もつい気を許して、朱の唐櫃の中から例の鬼の手を取り出して老母の前に差し置いた。老母はこれを手に取り、しばらく見ている様子をしていたが、突然、自らの右の臂から切られたものを差し示し、「これこそわが手にて候いける」、と叫んで、つぎ合わせ、忽ちにして、身のたけ二丈ばかりもある牛鬼(のように頭が牛の形の化け物)となって、酌に立っていた渡辺綱を左の手にげながら、頼光に走りかかった。頼光は例の太刀を引抜いて、牛鬼の首をすっぱり切って落とした。その頭は中空に飛び揚り、太刀のを五寸喰い切って、口に含みながら、半時ばかりは躍り上がり、躍り上がりして、吠え怒ったが、ついには地に落ちて死んだのであるが、そのはなお屋根のより飛びでて、遙か天高くにあがってしまった。

 その故であろうか。現在でも、大阪市東区横堀町(旧名・渡辺)の辺りに住いする、嵯峨源氏を祖とする渡辺党の家造りには破風を立てず、寄棟造りにするという。