2005.3.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

35.京のお地蔵さん巡り(十)

 

 

18.首ふり地蔵(東山区清水寺山内 地蔵院前)

 たしか首ふり地蔵が清水寺山内の地蔵院前にあると聞いて、参道のみやげもの屋で地蔵院をたずねると、「ジゾウイン?さあ‥‥」 店員はけげんな声で言った。「首ふり地蔵があるお寺なんですが‥‥」「ああ、あのお地蔵さんのあるとこ。そんなら‥‥」

 清水焼を売るみやげもの屋さんがひしめくだらだら坂をのぼった、とっかかりの塔頭が地蔵院だった。そして、お地蔵さんはその縁先に、まるで“日なたぼっこ”でも愉しんでいるかのように、すわってござった。身の丈50cm、ほこらはなく、ぽっんと一体。かわいい前掛けを胸に、右手には扇を持って、なんとなく愛きょうのあるお地蔵さんである。 

 話は明治初期にさかのぼる。清水さんの門前には当時、阿古屋茶屋なる遊里があったそうだが、ちょうどそんなころだろうか。

 祇園の花街に、人気ものの幇間(たいこもち)がいた。名を鳥羽八といった。清水さんに深く信仰していて、人柄がよかったせいか、旦那衆からも芸妓たちからも「鳥羽八」「鳥羽八つぁん」と、お座敷がかかった。

 「ほんにありがたいことで‥‥。これも清水さんのおかげ」

 鳥羽八も精いっぱいにお座敷をつとめた。ますます人気はあがり、親しまれた。そんな鳥羽八が、いつのころからか、お座敷の合い間をぬって、こつこつと彫り出したのが、一体の石像。扇しか持たぬ幇間の手には、ノミは思うにまかせなかったが、それでも日数をかけて彫り上げた。石像は彼の片生身だった。しかも、その姿が風変わりであった。

 手に扇を持っているのは当然として、首がぐるぐる回る石像なのである。なんと、奇妙な代物ではないか。日ごろ、かわいがってくださったお得意さんの方に首を廻し、感謝しようというのだろう。鳥羽八は石像を清水さんにおさめてからは、毎日のようにお参りを続けた。石像は、いつしか花街でも、評判になった。そして、だれいうとなく、石像は首が動くというので「待ち人祈願に霊験あらたか」という、うわさも生まれた。

 想う人の住む方角に、石像の首を向けて祈願すると想いがかなう。いまも、祇園街あたりの、女性がお参りにうるという。いかにも花街らしい言伝えである。

 「お地蔵さんというけれど、お地蔵さんじゃないんですな。幇間の話もだれいうとなく伝えられた話で‥‥。まあ、いまも参りにこられるんで、祀(まつ)っているんですが‥‥」

 寺内の僧の話である。

 頭を持って動かすと、ごりごりと動いた。何をお祈りするか、である。


19.世継ぎ地蔵(下京区富小路通五条下ル 上徳寺内)

 この辺り、平安朝当時は豪華な殿舎楼閣を誇った河原院跡である。嵯峨天皇皇子の左大臣源融が造営、邸内には鴨川の清流を引き入れ、詩歌管弦の宴をたのしんだが、なかでも、見事だったのは塩竃(しおがま)。陸奥国千賀の浦の景をそのままに模し、難波から潮水を運んで塩をやかせた。その美しさを在原業平は詠んでいる。

  塩竈にいつかきにけん朝なぎに
    釣する舟はここによらなん

 紫式部もまた、この庭園をモデルに「源氏物語」玉鬘十帖の舞台、六条院を展開している。そんな豪邸跡をいま山号に残した寺がある。塩竈山上徳寺。境内に安置した“世継さん”地蔵で世に知られる寺でもある。古くから、子種に恵まれない夫婦に霊験あらたかで、いまも訪ねる参拝客はあとを絶たない。

 「なんとか子種が授かりますように‥‥」

 男は山上徳寺本堂にひざまずいて、一心不乱だった。明暦3年(1657)、男は八幡の在で、名は清水某。つい先頃、一子を病で失ったのだが、どうしたことか、あと子供が生まれない。このまま世継ぎがなければ、家系が絶えるとあって、いまはおぼれるもの、なんとかのたとえ。十七日の祈請をたて、一日も欠かすことなく、いよいよ満願の日。清水さん、祈願の疲れがでたのか、本堂前でうとうと。と、夢の中にお地蔵さんが浮かび上がった。

 清水さんはこれもなにかの縁、頭に御姿を刻み込み、その尊像を彫って本堂横に安置、さらに一層の祈願を励んだ。やがて一子が授かったということである。

 この話、後日談がある。享保(1716〜36)の頃、ときの住職・玄誉岩超が夜中の勤行のおり、夢の中に地蔵尊が現れ「わが欲するところの誓願は世に子なきものには子を授け、子孫相続し、その家の血縁絶えやらず、家運長久ならしめ、幸福薄きものは福を与ふべし」 以来、安産、子宝を授かりたい夫婦、子供の無病息災に霊験あらたかな“世継地蔵”として親しまれた。
 “ありがたや恵み深きを千代かけて
   家の世つぎを守る御仏“

 地蔵堂の四方をぎっしり取り巻いて、お礼参りの絵馬、祈願のよだれ掛けが重なってかかる。もう随分に古いものなのだろう、ほとんど絵の具の落ちた絵馬もある。堂の裏には、墨跡の新しい願文があった。「男でも女でも結構です。ただ丈夫な子をお願いします」子はいつの世にも授かりものなのだ。

 興味深いのは、この地蔵堂南に水子地蔵がある。十年十月の歳月を待たず、この世に生を果たさずに流れた水子たち。卒塔婆が重なり、水かけの跡が新しければ、新しいほど、胸が痛い。
 

20.矢取地蔵尊(南区九条羅城町)

 朱雀大路の南端、羅城門。いまではその姿はなく、「羅城門跡」という石標がわずかにその存在を示している。そしてすぐ目の前を横断陸橋の階段が視線を遮る。そんな中空の橋のたもとに古いお堂がある。矢取地蔵さんのお住まいである。

 京に都が移されたとき、王城守護のため、大路を挟んで東に「東寺」西に「西寺」という立派な寺ができた。東寺は空海の弘法さん。西寺は守敏大師という高僧が受け持ったが、そんな頃の話で、天長元年(824)夏のこと。都は大旱魃におそわれた。農民は大弱り。毎日、雨乞いが続けられた。朝廷でも民の苦しみを案じて法力の高い守敏と空海に降雨の祈祷を申しつけた。まず最初に祈祷したのは守敏。しかし、法力は天に通じないのか雨は降らない。十七日間、雨の代わりに降ったのは、守敏のひたいの汗だけであった。

 いよいよこんどは空海さんの登場。もし降れば守敏の面目は丸つぶれ。守敏は卑怯にも、雨の源“竜神”を封じ込める祈祷をして対抗した。しかし空海少しも騒がず、竜神開放の祈りをすると、アレヨアレヨという間に、竜神は天にのぼり、一天にわかにかき曇るや、ザッと降り出す恵みの雨。農民は大喜び。喜ばないのは、面目は丸つぶれの守敏である。「空海め、よくも恥をかかせおったな。この恨み、いかで、はらさでおくものか----」

 なんと、守敏、高僧知識の身でありながら、弓をとって空海をねらうしまつ。機をうかがい、羅城門の近くを通る空海に、うしろから矢を射かけた。

 その時おそく、かの時早く、空海に当たったかと思われた矢は、いずくからともなく現われた一人の僧の肩にプッツリ。空海さんは何も知らない。

 この身代わりに立ったのは、実は僧ではなく地蔵尊。お地蔵さまの背に矢が立ったのである。人々はこの地蔵尊の堂を作って安置することにした。庶民の災難を救ってくれた空海を守ったお地蔵さまとして、いまにいたるも、香華を絶やさず、守り続けているのである。 

 「そうどすなあ、毎日朝早くから、雨が降ろうが、風が吹こうが、必ずおまいりする人が三、四人はいはります。若いお人もいはりますよ」

 堂の西隣のお菓子屋さんに尋ねたら、こんな返事がかえってきた。

 「なんせ弘法さんの命守らはった地蔵さんやさかい」いまでもその右肩に矢傷のあとが残っているという。石造坐像五尺の大きな、この地蔵尊への信仰は根強く残っているようである。

 

(「お地蔵さん巡り」は今回で終了します。)