2005.1.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

33.京のお地蔵さん巡り(八)

 

 

14.泥足地蔵(中京区六角通大宮西入ル 善想寺門前)

 泥足地蔵は、あらゆる願い事を聞いてくださる有難いお地蔵さんである。それは、衆病平癒、寿命長遠、聡明智恵、商売繁昌、衆人愛敬、穀米成熟、そして神明加護まで、何でも叶えてくださるのである。

 “おん、か、か、かび、さんま、えい、そわか”

 身の丈40Bのお地蔵さんに、こう、二十一度となえて手を合わせば、御利益疑いないとか。庶民的な、親しみやすいお地蔵さんである。

 このお地蔵さんは平安初期、比叡山延暦寺の伝教大師が衆生化益を念じて自ら刻んだ半伽の木像で、はじめは大津・坂本村の地蔵堂に安置されていた。のち天正15年3月、この善想寺門前の地蔵堂にお迎えして、祀ったといわれる。

 いつのころだろうか、坂本村はかってない干バツに見舞われた。田畑はヒビ割れ、作物は枯れるにまかせた。といって、村人たちはどうすることもできない。みんなはただ、天をあおいで長嘆息するだけ。そんな苦しみのなかで、一人の百姓がいうには、

 「いいことがある。どうじゃ皆の衆、地蔵堂のお地蔵さんに雨を降らせていただくようお願いしては‥‥‥。聞き入れてくださるかも知れぬ」

 名は作兵衛といい、日ごろから地蔵さんを信心する男である。作兵衛さん、すぐに念仏祈願をはじめた。三日後であった。一天にわかにかき曇り、ポッリポッリときたかと思うと、ザーッと大粒の雨。

 「慈雨じゃ、慈雨じゃ、作兵衛さんの願いがお地蔵さんに通じたのじゃ」

 村人たちは、雨具もつけずに田植えにとりかかった。が、当の作兵衛さん、昼夜を分たぬお参りで冷えたのか、あいにくの腹痛。田植えどころか、床のなかでウンウンうなっている始末。気の毒がったのは村の人たち。

 「どうじゃ、あすはみんなで作兵衛さんの田を手伝おうや」

 そして翌日、村人たちは作兵衛さんの田に出かけた。と、どうだろう。田には青々と苗がすでに植えられているではないか。不思議のあまり、地蔵堂に出かけると、お地蔵さんの腰から下に、べったりと泥がついていたのである。

 泥足地蔵さんにはまた、こんな話もある。文正五年、堺町に勘兵衛という男がいた。妻は妊娠したが、所謂ユスリ産という難産持ち。思い余った勘兵衛、泥足地蔵さんにお参りした。やがて臨月。妻は意外にも軽いお産で玉のような赤ん坊がうまれた。勘兵衛さんはご利益を感謝し、お礼参りに、地蔵堂をたずねてみると、お地蔵さんのからだは一面、玉の汗。人々は泥足さんをまた、汗出地蔵さんとも呼んだという。

 善想寺の墓地には華道家元・池坊三十五世専好をはじめ、専定、専正の墓があることでも知られている。

15.屋根葺地蔵(中京区坊城通り新徳寺内)

 うす茶色の土塀に囲まれた壬生寺、そのまん前に構える新徳寺。ここの本堂に、一風変わった「屋根葺地蔵」というのがある。この地蔵尊は、以前、星光寺の本尊で、室町時代は、“洛陽六地蔵めぐり”の一つとして、民衆の厚い信仰があった。土佐光信による「星光寺縁起絵巻」によると、鎌倉時代の寛喜二年(1230)、山城守平資親(すけちか)が、東山の別業の草むらの中で発見、その後、亡母の追福のために御堂をつくり安置したのが、その名の由来である。

 鎌倉中期の建長年間のこと。いまの六角櫛笥町に貧しい筆売りの老女が住んでいた。この老女、ほかに身寄りがなく、一人ひっそり筆売りの店を守っていたが、退屈しのぎに近くへ散歩をするのが日課となっていた。そしてある日のことだった。

 「こんなところにお地蔵さんが‥‥」

 老女はそれから、毎日、地蔵さん参りをするようになった。そして、その年の初秋-----。

 「ヤレヤレ、どうやら息苦しい夏も終わったようじゃ」

 老女は一息ついた。と、それもつかの間、こんどは台風のお見舞いである。

 「ビュー、ビュー」うなりをたてて吹きまくる風に、古い家はたちまち壊されてしまった。「困ったことだ」 危うく生命だけは助かった老女、途方もなく町中を歩き回った。しかしこれから冬に向うというのにどうすることもできない老女はぶつぶつ独りごとをいいながら、こわれた家にもどった。

 すると、どうしたことだろう。町をぶらついているうちに、こわれた屋根が直っているではないか。理由は簡単だった。通りがかった若い法師の群れが「これはひどい。かわいそうに」と、よってたかって修理してしまったと--------

 「あのお地蔵さんが法師さんたちを導いて下さったに違いない。」 老女は一層、信仰を深くし、町の人たちもそう思った。

 ところで、このお地蔵さんが祀られた星光寺は中京区六角通猪熊にあって、文永十一年(1274)と嘉暦元年(1326)に火災にあい、いずれも再建されたが、その後の沿革はわからない。またこの地蔵尊が新徳寺に移されたいきさつや、年月も不明である。

 伝えによると、古い像は等身大の石造坐像といわれるが、この新徳寺の像は木彫。しかも高さ30Bばかりの小さな延命型坐像。どうやら二代目で江戸期の作という説もある。