2004.11.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

31.京のお地蔵さん巡り(六)

 

 

10.染殿地蔵(中京区新京極四条上ル西入ル)

 京の繁華街新京極の移り変わりは激しい。そんな中で一つ、変わらないところがある。四条通りから路地に入った突き当たり、染殿地蔵さんがそれである。古びたお堂がそうなら、安産地蔵とあって、霊験あらたかな腹帯を受けにくる人も昔のままである。

 お地蔵さんは秘仏とされ、堂内厨子に納められているが、高さ2mの裸形立像という。

 藤原明子は、その日も浮かぬ顔だった。明子は藤原良房の娘。いまは文徳天皇の女御となり、一手にその寵愛をうけていたのだが、ただ一つ悩みがあった。“皇子”が授からないことだ。
 「ああ、なんとか、皇子が得られないものだろうか」

 明子が懐妊するかどうかは、彼女だけの問題ではない。父・良房の地位、ひいては藤原一門が栄えるかどうかにかかっている。

 と、ある日、内裏を訪れた男から耳よりな話を聞いた。

 「なんでも四条の地蔵菩薩が、子宝にご利益があって‥‥」

 明子は、早速地蔵堂に参り、十七日の願をかけた。

 そして、満願の日だった。彼女には明らかに懐妊のしるしがあった。やがて十月十日、明子は玉のような男の子を生んだ。のちの、清和天皇である。

 これが縁で、のちの宮廷政治に藤原王国が築かれるようになった。地蔵尊は、明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって“染殿地蔵”と呼ばれるようになった。

 染殿地蔵の地蔵堂はもと、この北にあった金蓮寺の塔頭、釈迦院の所有だったが、たびたびの兵火に焼かれ、いまの堂は維新前の“どんど焼け”で焼失した際、仮堂を建てたのがそのまま残ったのである。安産の霊験は広く全国に知られ、戌の日ともなれば、関東、四国あたりから、安産祈願の腹帯を授かりにくる人が絶えない。         

 

11.鯉地蔵(中京区新京極通蛸薬師堂内)

 京都の繁華街新京極の中ほどに“蛸薬師”の名で知られる小さなお寺がある。この境内の片隅にささやかなお堂がひっそりとたっている。

 「鯉地蔵」――めずらしい名のお地蔵さんだが、このお地蔵さんにはこんな伝説が秘められている。時代ははっきりしないが、とにかくずっと昔の話。この近くにあったある店の主人が、働きもので心がけのいい店の若いものに、大事な用件を託した。

 「気の毒やけど、この文箱を川東のおじさんのとこへ届けてほしいのや。きょう中に渡さないと命にかかわる大事な手紙がはいっている。私が持っていきたいのだが、このとおり足が悪うて、どうにもならん。すまんが、たのまれてくれんか」

 足が悪くて床についたまま、出歩くことのできない主人の頼みに、若ものは二つ返事で引き受けた。

 「ただ、このとおりひどい雨で鴨川も水かさが増していることやろ。くれぐれも気をつけてな」

 主人の頼みに、若ものは早速、文箱をかかえて店を出た。途中、いつもお参りしている蛸薬師のお地蔵さんに「無事届けられますように」とお願いすることは忘れなかった。

 さて、鴨川へきてみると、なるほど水かさが増し、流れも激しい。この当時、鴨川には五条橋がひとつ架かっていただけであとは歩いて渡っていた。若ものは「これはあぶない」と思いながらも、思いきって肩まで水につかりながら激流に飛びこんだ。ところが、やっと半分近くまで渡ったところで、悪いことにスルリところんで大事な文箱を流してしまったのである。

 「しまった」

 若ものは、まっ青になって箱の行方を見つめていると、なんと大きなコイがその文箱をくわえて、泳いでくるではないか。若ものが文箱を受け取ると、コイは水中深く姿を消した。こうして若ものは、不思議なコイのおかげで、無事責任を果たすことができた。

 日ごろ、心がけのよいこの若ものを、お地蔵さんがコイに姿を変えて助けた------こんな評判が町中に立ち、その後、このお地蔵さんは「鯉地蔵」と呼ばれるようになった。

 「鯉地蔵」をまつる蛸薬師堂は正しくは妙心寺(浄土宗)。その昔、この寺に親孝行な僧がいて、ある時、病母の求めに応じてタコを買ってきた。僧の身で生魚を買うのを怪しんだ人たちが、この僧をとり押さえて無理やりに箱をおしあけたところ、箱の中にあったのはタコではなく薬師経。このことがあってから、世人はこの霊験をたたえ“蛸薬師”と呼ぶようになったと伝えている。

 寺の名の由来が親孝行の僧、地蔵さんの名の由来が、主人思いで、信仰心のあつい若もの。シーズンともなれば、観光客や修学旅行生でごった返す新京極のど真ん中。お寺に足を止める人は少ないが、付近の人たちの信心はすこぶる厚いと聞く。