2002.5.1

 

藤竹 信英

 

3. 紫野の斎院(さいいん)

 

 

 嵯峨野を訪れる旅人の心を引いてやまないものに、竹林に囲まれてひっそり鎮まっている野宮がある。それに引きかえ、この洛北の紫野に残るいにしえの斎院址は、環境にも恵まれず、今は人家に埋もれて知る人もない有様になっている。元来この紫野は大徳寺周辺の広大な地域を指し、平安前期には天皇の遊猟地となり、北につづく栗栖野(くりすの)とともに禁野に指定されていた。現に、昭和初期になっても大徳寺より北は人家も疎らで、我々中学生の好適な教練の演習場になって、鉄砲を担いで走り廻わった記憶がある。古代学の泰斗角田文衛博士の調査研究によれば、この紫野斎院の遺址は、京都市上京区大宮通の西で、廬山寺通の北の地域に当るということである。いま其処に鎮座する七野神社は、いにしえの斎院の諸殿舎に祀られた守護神を合祀したお社だといわれている。斎院は内院と外院とからなり、内院には、賀茂の斎王の寝殿及び賀茂両社の祭神をまつる神殿があり、その後方に客殿、大炊殿を配する。外院には、斎院司(さいいんのつかさ)や警護の武士達が詰める武者所などがあった。

 斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで四百年ばかり続いた。それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠くことのできない役割を果たした。初代斎王の有智子内親王は、漢詩人として名をなした。その後、累代の斎王の中では、
例えば選子(のぶこ)内親王、_子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。彼女は、周知の通り、『新古今和歌集』随一の女流歌人である。永暦二年(1161)、八、九歳の式子は斎王として初めて賀茂の祭に奉仕し、それ以後、十六、七歳の年ごろまで斎院生活を送った。その身辺には斎院方女房として、建礼門院右京大夫とも歌の贈答のあった中将君(俊成の娘の一人)がいた。そして、嘉応元年(1169)七月、式子は病弱を理由にして斎院を退下した。

みたらしや影絶えはつる心地して
しがの浪路に袖ぞぬれにし

 その頃すでに式子の実兄以仁(もちひと)は、大方の推量に反して出家を断念して、元服をとげ、公家社会の耳目を集めていた。以仁がのちに非業の最期を遂げることは、あらためていうまでもない。式子の斎院退下は以仁元服の四年後であったが、妹休子は夭折し、生母高倉三位も没した。そうした身辺のざわめきが、この女性の心に深い翳りをもたらした。

恨むとも歎くとも世のおぼえぬに
涙なれたる袖の上かな

 建久五年(1194)六月、四十路に入っていた式子は落飾した。不帰の客となったのは、建仁元年(1201)正月のことである。入寂に至るまで、竜寿御前と呼ばれる女性が付き添っていた。定家の姉に当る。その定家と式子との、正式の初対面は、定家二十歳の年、父俊成に伴われて、八、九歳年上の式子を萱御所斎院に訪ねたときであったらしい。その五年のち定家は、九条兼実の家司(けいし)となるが、建久三年には式子に水晶念珠十二を奉ったことが知られ、その間、歌作を通してこの二人の交流は暖かいのもであった。歌人同志のかもし出す独特の雰囲気が核心となってのことであろうが、やがては若き日の二人にまでも空想の羽をのばした「定家葛(ていかかずら)」の巷説が育くまれ、さらには後世、謡曲『定家』へと結晶する。

 今出川通の千本東入るに在る般舟院(はんじゅいん)陵墓は普通の陵墓とは異なり冠木門で閉ざされている。くぐり戸を入ると陵墓官詰所があり、参拝することはできる。この域内の西北隅に小さな円墳状の塚があり、その上には姿のよい鎌倉初期と見える小さな五輪石塔が建つ。これを古くより、「式子内親王塚」と伝える。この塚の正面には、まことに端正で、温和な表情の石仏が一体と、他に地蔵尊など数体が並んでいる。この塚を称して、一名、「定家葛の墓」と呼んでいるが、これについては早く、『応仁記』に「千本ニテハ両歓喜寺、此寺ニ定家葛ノ墓アリ云フ是ナリ」と述べている。般舟院の地は、もと、嵯峨天皇の御願寺(ぎょがんじ)として建てられた大聖歓喜寺の境内であったが、応仁の兵火で焼失し、定家葛の墓ばかりがそのまま残ったというのであろう。

 葵祭の日、斎王の行列は紫野の斎院を出発し、美々しく一条大路を東へと進む。下鴨神社に到着すると、斎王は神館(かんだち)に入って浄衣に着替え、社頭の儀を行う。私も、去る年、たまたま遠方からではあったがこの社頭の儀を窺う機会を得たが、さながら平安の昔に遊ぶ心地であった。

 つづいて上賀茂の御社に向かい、再び社頭の儀をすませた後、上社の神館に泊まった。翌日は斎王のみの行列が組まれ、御園橋を渡り、雲林院の前を通って斎院に帰着したのである。清少納言は「見ものは、祭のかへさ」と述べ、この還啓の際の風趣ある行列を評価するのにやぶさかでない。「祭の帰(かえ)さ、いとおかし。昨日は、よろずのことうるはしくて、一条の大路の広うきよげなるに、日かげも暑く、車にさし入りたるもまばゆければ、扇にて隠し、居直り、久しく待つも苦しく……」

 “祭の帰りざまはほんとうにすばらしいものだ。昨日は行列の次第が何もかもきちんと整理されていて、広くきれいに掃除されている一条の大路なのだけれど、日ざしが暑くって、車にさし入る光もまぶしいので、扇で顔に差す光を防ぎながら、座り直したりして長いこと待っているのもほんとうに苦しいことで……”という状況である。さらにすすむと、昨日の祭の日には、一台の車に大勢が詰め込まれて、二藍(ふたあい)の直衣、指貫(さしぎぬ)、あるいは狩衣など、思い思いの服装で、簾まではずしてしまって、まるで羽目をはずしたはしゃぎようだった公達が、今日は打って変わって斎院の饗宴のお相伴役ということで、束帯に威儀を正して、車に一人ずつ、つくねんと乗ったその後ろの席に、かわいらしげな殿上童(でんじょうわらわ)を乗せているのも、しゃれている……などと清少納言ならではの濃やかな描写が続けられている。