2004.9.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

29.京のお地蔵さん巡り(四)

 

 

6.鎌倉地蔵(左京区浄土寺真如町黒谷 真如堂内)

 白い石だたみが境内に広々と続いている。ひとけのないお堂の横で女の子が一人、石けりをして、遊んでいる。

 “ああ、真如堂(しんど)  飯、黒谷(くいたい)さん”

 わらべ歌で親しまれている真如堂。その静かな境内は京都らしさをまだまだ底に秘め、訪れるものをそれぞれの自由な幻影でつつんでくれる。

 「市中に出て一切の衆生を利益し、ことに女人を済度したい」――比叡山常行堂の本尊・阿弥陀如来がいわれ、ふもとに下りられたのが創始。もともと堂は、いまの位置からさらに東北の塔頭念仏堂にあったが、応仁の乱で荒廃、元禄年間に移された。真如堂は呼び名で、正しくは鈴声山真正極楽寺。入母屋造りの本堂を中心に大小さまざまな堂宇が散らばっているが、三重塔の横に小さな地蔵堂がある。なかのお地蔵さんが変わっている。人呼んで「鎌倉地蔵」。等身大の石の姿で、つややかなお顔である。

 昔、宮中に玉藻の前と称する美しい女官がいた。肌は雪のように白く、目は火山湖のように澄み、からだから、えもいわれぬ香りをただよわせ、宮中の男たちを悩ませた。が、だれも彼女の素性を知らなかった。この女が、近ごろ天皇に近づいて、さかんに誘惑する。にがにがしく思っていたのは大臣たち。

 「このままでは、政治にもさしさわりが‥‥」

 大臣たちは、玉藻の素性を問いただすため、ある夜、彼女の寝所に忍んだ。雨戸の隙間から、なかをうかがうと、あの美しい姿はなくて、尾が九本もある一ぴきの大きなキツネが寝ているではないか。

 「バレた、とあっては仕方がない。我は天竺より渡りし妖狐なるぞ」

 ひと声大きく名乗ると、矢のような勢いで逃げたが、やがて追ってきた追っ手に下野国那須野で打たれてしまった。

 ホット胸をなでおろしたのは大臣たち。しかし、その安堵もつかの間、死んだはずのキツネ、悪霊は殺生石に化け、都に現れては人々を苦しめた。天皇は噂高い名僧玄翁(げんのう)和尚に、祟りを鎮めるよう命じた。間もなく悪霊が収まったのは言うまでもない。和尚はまた、一体の地蔵を刻み、殺生石のために死んだ人々の霊を慰めるのだった。

 地蔵堂のお地蔵さんは、玄翁和尚がこのとき刻んだ地蔵尊だといわれる。どうしたわけか、久しく鎌倉に安置されていて、慶長年間にこの地に移されたとか。鎌倉の名も、長く鎌倉に安置されていたのに由来する。


7、崇徳地蔵(左京区聖護院中町積善院準提堂境内)

 「われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人とを争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん」

 保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に配流の身となった崇徳院は、人の世をこう呪った。このすさまじいうらみつらみの主の霊をなぐさめる地蔵尊がこれなのである。昔は聖護院の森(現京大病院付近)の中にあったそうで、明治以後、この地に移されたという。

 保元の乱、それは天皇家、藤原氏、源平ともに、親子兄弟、おじおい骨肉入り乱れた争いを繰り広げた戦いだった。子が親を討ち、兄が弟を斬る。そして親が‥‥。地獄絵図そのものだった。崇徳上皇はそんな戦いに敗れ、仁和寺に入り出家なさつたにもかかわらず、讃岐へ配流。その後、八年もの長きにわたって、配所へとどめおかれ、ついには世を呪って狂い死にされた。

 「天魔となって‥‥」という上皇の呪いがその通りになったのか、その後の都には大火が続いた。悪疫がはびこり、大地震がおそった。さらには“平治の乱”と、再び肉親同士相争う戦乱が続いた。

 「上皇さまの祟りじゃ」。「そうじゃ、そうじゃ」

 都の人々は、上皇の霊をなぐさめるため、鴨の川原近く、聖護院の森に「地蔵尊」をたてた。「崇徳院地蔵尊」である。

 “すとくいん”――“ひとくい”。いつのころからか、発音が似ているせいもあろう。崇徳院の呪いのすさまじさもあろう。地蔵尊の呼び名は「人喰い地蔵」という恐ろしげな名にかわっていき、人々はもっぱら“ひとくい”の名で呼んだ。そしてのち、無病息災の守りとして、恐ろしげな名とは逆に親しんだのだった。

 聖護院御殿の東。その一院家の積善院準提堂がある。“人喰い地蔵”さんはこの準提堂の境内にある。境内の北西のすみに無縁仏群といっしょに、四つの小さな祠があって、その西から二番目が“人喰い地蔵”さん。前に「お俊・伝兵衛」の恋情塚があるのがおもしろい。由来を書いた札さえなければ、そこらのお地蔵さまと何一つ変わりがない。「無病息災」の赤い前かけがかけられ、その名の“人喰い”どころか平和そのもののお顔を見せている。上皇は、いまもなお人の世を呪っているのだろうか。