2004.3.1

 

藤竹 信英

本編の著者藤竹信英氏は去る2月18日逝去されました。
以後これを彼の遺稿として続けさせていただきます。
(編集:菅原 努)

 

 

23.こちらが本家という紫野御所ノ橋・・・・・北区紫野下築山南町

 


 牛若丸と弁慶が戦ったのは、本当は鴨川に架かる五条橋ではなく、紫野の御所ノ橋だという異説がある。北区紫野の大徳寺の東側を南にながれる川を若狭川と呼び、むかしは付近の田圃の用水であったが、今は殆ど暗渠になって見ることはできない。御所ノ橋とはこの若狭川に架けられていた橋をいったもので、旧大宮通りの北大路より南へ百メートル、俗に大宮頭(かしら)といわれる付近にあったとつたえる。

 古老の話によると橋は長さ2メートル、幅は1メートル、欄干も何もない唯の一枚の大きな自然石からなり、裏面に梵字で何かが彫ってあったという。昭和の始め頃、道路の改修工事が行なわれた際、橋は取り払ってどこかへ持ち去られた。

 また付近の民家の裏庭には、弁慶が通行人を待ち伏せしたときに使ったという弁慶腰掛石と称する赤味を帯びた大きな石があり、さらにその南の紫野下築山(しもちくやま)南町には常盤御前が用いた井水とつたえる常盤井がある。井戸というより底の浅い涌き水で、周囲を石で囲んだ中に「常盤井」としるした一個の自然石があり、寛文十二年(1672)清水宗善という人によって建立した銘が刻まれている。

 大宮頭は地理的にみると、弁慶が叡山西塔から五条天神へ行くには鴨川の五条橋へ出るよりも上賀茂を経て大宮通りを南下するによいところであり、牛若丸もまた鞍馬から出てくるには大宮頭の方が近く、従って牛若・弁慶が出会ったのは、実はこの紫野の御所ノ橋といわれるわけである。この御所の「しょ」が濁って「じょ」と発音した為、話が船岡山から東へ一ぺんにすっ飛んで鴨川の五条橋になってしまったといい、紫野の住人は今もって口惜しがっているのである。

 この紫野の御所ノ橋とは梶井宮御所の門前の橋をいったものかと思われる。船岡山東辺は平安初期には淳和天皇の離宮紫野院があり、のちに寺に改めて雲林院と号した。さらに鎌倉初期には天台三門跡の一である梶井宮梨本坊が建てられ、皇族出身の法親王が代々住職をつとめられた。『応仁記』に、

  船岡山ノ滝頭(ガシラ)ニ東尾ヨリ行松ノ雲ニ聳エテ、御池ニハ常ニ群リ居ル鴛鴦(オシドリ)ノ近江ノ湖水ニ異ラズ、所モ名ニ負フ花盛リ、雲ノ林ノ宮所(ミヤドコロ)、雲井ノ春ニモオトラメヤ云々

としるされ、壮麗な御所のありさまがしのばれる。梶井宮はこの地にあること約二百有余年、応仁の乱にかかって焼亡し、のちに比叡山麓の大原に移った。これが今の三千院門跡なのである。応仁の乱後、旧地は荒れるがままになって放置されていたことは、江戸時代の中頃、ここを訪ねた黒川道祐がその著『擁州府志』に邸内の庭園に用いたと思われる庭石や井泉が、今なお一部残っている旨をしるしていることによっても想像される。

 されば御所ノ橋といわれた石橋や弁慶腰掛石とか常盤井などは、いずれもみな旧梶井宮邸内の庭園の遺物をいったものと思われる。それにも拘わらず、このような伝説が生まれたのは一つはこの付近の若宮八幡宮が古来源頼光の屋敷址とつたえられることや、その北方紫竹は牛若丸の誕生地とつたえ、その誕生井と称する井戸が残っている等、とかくこの付近一帯は源氏にゆかりの深い土地柄のせいによるものであろう。

 なお常盤御前は都落ちをする際、この常盤井で身をきよめ、北山の鏡石で姿を写して身をつくろい、伏見へ向って落ちのびたといわれ、これにちなんで前者を常盤化粧井、後者を常盤姿見石とよばれたという。伝説もここまでくると恐ろしい。