2002.4.8

 

藤竹 信英

 

2. 京洛そぞろ歩き(2)

 


 春爛漫の4月、西へ足を伸ばして嵯峨野を散策することにする。

 古都といわれる京都で、王朝の雰囲気をいまも色濃く留めているのが嵯峨野一帯の風物であろう。竹藪のなか、小柴垣のある小径を歩くと、いつしか王朝びとにでもなったような気分がする。その嵯峨野の一角に鎮まる野宮神社を訪ねよう。

 古代、新たな天皇が即位すると、必ず、未婚の皇女ないし王女が新しく斎王(さいおう)に選ばれて、天皇の御手代(みてしろ:代理のこと)として、天照大神の御杖代(みつえしろ:手伝いのこと)になるために、伊勢に遣わされる慣わしであった。そこで、新しい斎王は鴨川で潔斎したのち平安宮のしかるべき官衙に入り、ここを初斎院(しょさいいん)として一年余り斎戒する。それが済むと、この嵯峨野の地に新しく建てられた野宮に入って、さらに一年の潔斎生活を送らねばならなかった。 野宮は簡素な小柴垣を外垣とし、南の正門には樹皮のついたままの黒木の鳥居が立っている。境内には、斎王のいます正殿のほか幾棟かの板屋が並んでおり、そこには神官や男房、女房、警士など百四、五十名が勤めていた。

 斎王は野宮での精進が終わると、九月には桂川での祓禊(みそぎ)を済ませて宮中に入り、天皇との別れの儀を行う。天皇は黄楊(つげ)の櫛を斎王の額髪に挿し、「京(みやこ)の方(かた)に趣(おもむ)き給ふな」との勅語を下される。そして、百官に見送られて、京極まで華やかな行列が進められる。これを「斎王群行(さいおうのぐんぎょう)」と呼んだ。

 斎王が去ったあとの、野宮はすべて解体、焼却された。そのため野宮の正確な位置は判明していない。斎宮の制度の廃絶後、その遺址には野宮寺という尼寺が建てられたが、野宮神社はこの尼寺の鎮守であったらしい。それ故、野宮は、この神社の近くにあったと思われる。

 『源氏物語』(賢木:さかき)では、娘の斎王につき添って野宮に宿る六条御息所(みやすどころ)を、光源氏が思いきってお訪ねになる情景が目に浮かぶ。

 「御心にも、などて今まで立ちならさざりつらむと、過ぎぬる方(かた)悔しう思(おぼ)さる。ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなめり。黒木の鳥居どもは、さすがに神々しう見わたされて、わずらわしきけしきなるに、神官(かむづかさ)の者ども、ここかしこにうちしわぶきて、おのがどちものうち言ひたるけはひなども、ほかにはさま変りて見ゆ。火焼屋(ひたきや)かすかに光りて、人げ少なくしめじめとして、ここにもの思はしき人の、月日を隔てたまえらむほどを思しやるに、いといみじうあはれに心苦し。」

 光源氏としても、なぜ今までしげしげと通わなかったのだろうと、むなしく過ぎたこれまでが悔まれてならぬ。これということもない小柴垣を外囲いにして、板葺の家がそこかしこに、ほんの一時の作りといったふうに立ち並んでいる。黒木の鳥居のいくつかは、さすがに神々しく眺めわたされて、忍び歩きのはばかられるたたずまいであるが、神官たちがあちこちで咳払いをして、互いに何やら話している気配なども、よそとは様子がちがって見える。衛士(えじ)篝 火(がかがりび)をたく小屋の火がほのかに光っていて、人影も少なくひっそりとしめやかなので、このような所で、あの六条御息所が、物思いをかかえながら、長い月日を世間から遠のいて過ごしていらっしゃるのだろうかとお思いやりになると、まことにたまらなくいたわしいお気持になられる。

 ここでは光源氏と六条御息所の心理的葛藤が、野宮のたたずまいを背景にして、極めて巧みに描かれている。やがて御息所は、幼い斎王と共に野宮を離れて伊勢に下向した。明らかにこの個所は、娘の斎王規子内親王につき添いあえて母子で貞元二年(977)、伊勢に赴いた徽子(よし)女王の異例な行動がモデルにされている。また野宮における光源氏と六条御息所との逢瀬は、世阿弥をして謡曲『野宮』を着想させたのである。

 紫式部の居宅の向い側には、章明親王の王女たちが住んでいた。住居が近い上に又従姉妹(またいとこ)であったから、式部は王女たちと親しい仲であった。第一王女の隆子は早く斎王に簡定(かんてい)されたが、在任中早逝した。そこで、第二王女の済子がはからずも斎王に選ばれてしまった。翌寛和元年九月、女王は初斎院に移った。そして初斎院僅か二十四日間で、野宮に入った。これは異常な短さで、野宮の建物すらが未完成の有様であった。それあらぬか、事もあろうに野宮に盗賊が侵入し、女房たちの衣装を奪った。

 そして、寛和二年二月十九日のことである。斎王済子女王が人もあろうに、処もあろうに、その野宮を警固する滝口の武士・平致光と密通していると言う噂が天皇のお耳に達した。天皇は神祇官に宣旨を下し、火急に真相を究明させた。その結果、斎王女房の宰相の手引で、女王が致光と情交を重ねていたことが判明した。これは前代未聞の不祥事で、清浄な潔斎生活が厳しく要求される斎王にとって救い難い罪科とされた。済子女王には即刻、斎王罷免の勅命が下された。身近な又従姉妹(またいとこ)が起こした密通事件は、若い紫式部に強烈な印象を与えたことと思われる。