2003.9.1

 

藤竹 信英

 

17.平安朝の妖怪変化
  −その貳− 宇治の橋姫

 


 琵琶湖の水をあつめて一気に山峡を駆け抜けてくる宇治川の流れは、思いの他に激しく疾い。その川面を渡る華麗な宇治橋の姿は、阿宇池ごしに見る平等院の鳳凰堂と共に、宇治の地を訪れる人に忘れられない風物である。

 その宇治橋の西寄りに、三の間というものがある。宇治川の急流を真下に望みたい観光客におあつらえむきの展望台をしつらえたような、幅一間ばかりの奇妙な張り出しである。単なる橋の装飾ではない。『都名所図絵』によれば、三の間から汲む宇治川の水は山城の名水として知られ、瀬田唐橋の下にある竜宮より湧き出るとか、竹生島弁財天の社殿の下より流れ出るといった伝説があり、秀吉も伏見城での茶の湯の水を、三の間より汲ませたのであった。しかし、三の間は単に水を汲みあげるために作られたものではなかった。この処は女神の鎮座する場所であった。瀬田の唐橋と共に名橋としてその名を称えられる宇治橋の歴史は古い。江戸時代に橋畔より出土した宇治橋断碑には元興寺の僧道登が大化二年(646)に架けたとあり、そのとき橋の守護神として瀬織津(せおりつ)姫を勧請した処が三の間であったという。姫は流れの速い川瀬に居て、人の罪けがれを運び去ってくれると信じられた女神で、それが橋の守り神になり、橋姫とも呼ばれるようになった。この橋の架橋は古代七世紀の巨大工事であったから、それが一たび流出してしまえば、名にしおう急流を小舟で渡るしかないのであるから、この橋の安全を願う人々の気持ちというものは並大抵ではなかったはずで、宇治橋の橋上に橋姫を祀るだけでは不安なので、東岸の丘の上には橋寺までも建立したのである。

 宇治の橋姫が初めて古典に登場するのは、『古今和歌集』に於てである。

   さむしろに衣かたしき今宵もや
       我をまつらん宇治の橋姫

 歌意は、敷物の上に淋しく独り寝をして今夜も宇治の橋姫は私を待っているだろう、というものである。男が女のもとに通っていた通い婚の時代のことである。逢瀬のときは二人の衣を敷いた。だから片敷きといえば独り寝をすることになる。この橋姫の歌をうたわせたのは、女を裏切って他の女のもとに通っている男の呵責の念と考えてもよいし、何かの事情で女のもとに行けない男の哀切の心持ちと解してもよい。

 橋姫をもう少し探ってみると、また別様の橋姫がいる。むかし、某の中将は都を去って浪華のほとりに住んでいた。二人の妻を持ち、一人を宇治の橋姫といった。この橋姫が懐妊して、つわりになやみ、七尋(ななひろ)の長さの若布(わかめ)をほしがるので海にさがしに行ったが手に入らない。仕方なく、笛で、「青海波」の曲を見事にかなでたところ、波風が立って、中将の姿が消えてしまった。

 一方、橋姫はそれから三年も中将が戻らないので海岸に出て中将を捜し求めていたところ、はるか遠くに灯りを見て尋ねてみると姥が待ち受けていて、実はいま中将は龍王に捕えられて、婿になっているが、本心では故郷を慕っている、という。つづけて、今夜ここに来る予定だからあわせてあげよう、私は龍王の薬草を預かる者だが、その薬草を煎じる鍋の中を決して見てはいけないが、それでよいかと尋ねた。約束を交して待っていると、やがて、妖怪に連れられて憔悴した姿の中将がやってきた。中将は用意された盃もとらずに、ただ、「さむしろに衣かたしき今宵もや」の歌を、くりかえし、くりかえし詠むのみであった。同行の妖怪が席を外すと、中将は橋姫に、折々ここで会おう、と言って帰った。 橋姫は喜こんで、ついもう一人の妻にこの話を洩らした。するとその女も同じように海岸に来て姥にあう。しかし、その女は鍋の中を見てしまう。中将とも会うが、さきのように、ただくりかえし歌を詠んでばかりだったので、自分を少しも思ってくれないと、本妻を妬んで外に飛び出たとたん、中将の姿も家もたちまちにして消え失せて、松原には板屋貝が一つ残るのみであったという。

 一方、源頼光とその一党が武将として、安倍晴明が天文・陰陽の博士として、共に名を高めていた頃の話である。京は下京の樋口というあたりに、山田左衛門国持という者がいた。その妻というのは、ある公家の娘で、二人の仲もべつにどうということはなかったのであるが、この左衛門、別のところに、女をひそかに囲っていた。これを知った妻は左衛門を責めたてたが、夫はのらりくらりといい逃れるばかりで、いっこうに女と別れようとしなかった。

 ある夕暮れ、左衛門がまたしも女のもとに向かったことを知った妻は、嫉妬の思いをめらめらと燃え立たせ、「憎き男かな、いかにして恨みを報ぜん」と思い、「今日こそは、貴船の明神へ丑の刻参りをしてくれよう」と決意する。

 女は、丑三つに暗い夜道をただ一人で貴船明神へとひたすらに足を運ぶ。ただ憎い夫への恨みを晴らさんがために。社前に至った女は、「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうれい)、貴船の明神、願わくば、生をば、変えずして、生きながら、この身を、悪鬼となしてたびたまえ、我妬たく思う者に、恨みをなさん」と祈請した。それを七日間続けた満願の日の夜、貴船の社で、通夜のお籠りをしていたところ、社前の男みこ(かんなぎ)の夢に、鬼が現われて、「望みをかなえよう」との託宣を下す。

 そして、「赤い衣を身にまとい、頭には丹(朱)を塗り、手には鉄杖を持ち、
頭の髪を五つに分け、五つの角のかたちに作り、頭には鉄輪を載き、その三つの足に火を灯し、宇治の川に行きて、二十一日間浸れ。さすれば、生きながらにして、鬼に変じるであろう」と鬼になる作法を教える。かんなぎが、この夢の中の託宣をこの女に告げると、女は喜び勇んで帰宅し、お告げ通りの出で立ちに身をつくろうと、京の中心である大和大路を南に向かって行進し始めた。その有様を見た往来の者は肝をつぶし気を失うほどであった。そして二十一日の満願の日となり、女はついに生きながらの鬼となった。鬼になった女は今日にも憎き男を取り殺さんと、急ぎ都へとのぼってゆく。

 さて、一方の左衛門は夢見が悪いのに不審をいだき、天文の博士安倍晴明のところへ行って夢解きをしてもらう。晴明がいうには、「女の怨みで、あなたは今夜のうちにも命を落とすかもしれぬ。しかし祈念によって、命を転じ変えてあげるから、あなたは宿に戻り、身を清め、部屋に引き籠もって、不浄の心をいだくことなく、ひたすら観音の咒(じゅ)を唱えなさい」と、厳しい物忌みをするよう教えて、晴明は鬼神退散の祭儀を始めた。その最中に鬼に変じた女が憎き左衛門の家に到着した。鬼女は左衛門の寝室の妻戸を踏み破り、なかに侵入して左衛門の枕元に立った。「あらうらめしや、捨てられて、思いの涙に打ち沈み、人を怨み、夫をかこち、ある時は恋しく、又、あるときは恨めしく、起きても、寝ても、忘れぬ報いは、今こそ白雪の、消えなん命を、今宵ぞ、痛わしや、悪しかれと思わぬ山の、峰にだに、人の嘆きは、多かるに、いわんや、年月思いに沈む、恨み積もりて、執心の鬼と成りたるも、ことわりなれ、出で出で、さらば命を取らん」と、怨み心の思いのたけを述べたて、左衛門を取っていこうとした。

 ところが、そのとき枕元に、三十日間を交替で国家人民を守り、如法経を実践するという三十番神が出現して、「妄霊鬼神はけがらわしや、退散せよ、退散せよ」と鬼女を攻めたてたので、さしもの鬼女もたまらず、思いを晴らせずに退散し、左衛門は命拾いをしたのである。

 この鉄輪の鬼女は晴明に追い払われたものの、なお健在であったから、燃え盛る怨念を少しでも鎮めようと、夜な夜な洛中に出没し、男がいれば女に化け、女がいれば男に化けて近づき、その命を奪い取った。

 そこで、帝は源頼光を召し、鬼神を退治せよ、との勅命を下す。頼光は配下の渡辺綱と坂田公時の両名を召し、退治を命じた。二人は鬼女を求めて洛中に繰り出し、法性寺のあたりで出会ったが、この鬼女は二人の武将の力に恐れをなして、すぐさま降参したのである。「いまからのちは災いをなさないから、どうぞこのわたしを弔ってほしい。これからは王城を守る神となろう。」こう言い放って、鬼女は宇治川の流れに姿を消したのである。

 今、宇治橋西詰にある橋姫社は宇治の橋姫と住吉明神を祀るのであるが、その宇治の橋姫は、緋袴を着けた裸形の鬼女で、右手に蛇、左手に釣竿を持ち、また住吉明神は金色夜叉の坐像であるという。