2003.5.2

 

藤竹 信英

 

13. 双ヶ丘のほとり:兼好法師あれこれ(2)

 


 次は『徒然草』、第二百三十八段、「自賛の事、七つ」の最後にある話である。ある年の二月十五日(旧暦ではいつも満月)の夜、千本釈迦堂に於ける法会をひそかに聴聞していた兼好に美女が近付いて、次第に彼の膝元に身をにじり寄せてくる。あとすざりしてもなお寄ってくるので、到頭兼好は立って、その場を離れた。のち、ある御所の古参女房と雑談した時、兼好は相手に、「情けを知らぬ人と失望しました。つれない人よと恨みにしている女がいるのですよ」と言い出され、「いや、そんなおぼえはありません」と答えておいた。ところが、あとできくと、この話には、「更にその奥」がかくされていた。あの夜、その場の局(つぼね)(身分高き女性のための御簾でかこったコ−ナ−)にいたしかるべき女性が、侍女にいいふくめて、「うまく行けば、その様子を知らせよ。さぞ、おもしろかろう」と計画されてのことだったという。

 兼好はこの企みにひっかからなかった。男は美女に弱いが、自分はそうではなかったというのが、兼好の自讃の内容である。いかにもなまめかしい話で、蕪村はこれをもとに

花の暮兼好をのぞく女あり

と詠んでいる。この話は、勿論兼好が出家する前の二十代の思い出と考えられる。そして相当女房たちの憧れの対象だったと思われる。もう一つ興をそそる話、それは第百十七段に述べられている。

 “友とするにわろき者、七あり。一(ひとつ、以下同様)には、高くやん事(ごと)なき人。二には、若き人。三には、病なく身強き人。四には、酒を好(このむ)人。五には、たけく勇(いさめる)る兵(つわもの)。六には、虚言(そらごと)する人。七には欲ふかき人。よき友三あり。一には、物くるヽ友。二には医師(くすし)。三には、智恵ある友“

 これは、論語、季氏「益者三友、損者三友。直(なお)きを友とし、諒(まこと)(真実)を友とし、多聞(博識)を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)
(こびへつらう)を友とし、善柔(ぜんじゅう)(へつらう)を友とし、便佞(べんねい)(口先がうまい)を友とするは、損なり」に学んだものと思われる。

 そして、一見して一般に通用する真実を説いているように見えるが、実は兼好自身に都合のよい者と、相手にしにくい者とが大胆に列挙されている。その点、『論語』のパロディ−といってよく、それにしても、兼好の悪友は七人もいたのに善友はたった三人。とても、やりきれなかったに違いない。

 「よき友三つあり」はなかなかユ−モアにあふれているようである。「物くるる友」は俳諧の心といってもよいだろう。とにかく人間味のある言葉である。ここで頓阿法師が思い出される。「よねたまえ、ぜにもほし」と贈ったことがあるという。また浄弁律師が筑紫へ下るとき、火打を贈ったのもこの部類である。永井荷風の『隠居のこごと』に、「物くるる人を、よき友の初めに挙げたる兼好は、誠にわけ知りたる人なり」とある。

 次に「医師(くすし)」を挙げているのは兼好の健康も推測されて興味深いことである。しかし、もともと兼好は、医薬に関してはたしなみが深かったとも思われる。 終わりは兼好法師の艶書代作の話である。兼好とほぼ同時代の貴族洞院公賢(どういんきんたか) (1291〜1360)の日記、『園太暦(えんたいれき)』の貞和四年十二月二十六日の条は、兼好が高師直の着用する狩衣等のことについて、公賢と相談したことを伝えている。師直は足利尊氏の執事として、当時有数の権力者であった。この年から二年後には殺害されているが、それまで兼好は有職(ゆうそく)の才を買われて彼に近侍していたと推測されている。このことは、太平記第二十一巻所載の兼好による艶書代作の挿話ともかかわる。それはのちに仮名手本忠臣蔵の鶴ヶ岡八幡宮社頭の場にも出てくる話として有名である。高師直はかねて塩谷判官の北の方に思いを寄せ、かきくどく恋文を「兼好といひける能書の遁世者」に代筆させるが、届けたその手紙が開かれもせず、庭に捨てられたと聞いて、師直は「いやいや、物の用に立たぬは手書きなりけり。今日よりその兼好法師、これへ寄すべからず」と怒る。その後、薬師寺公義の働きで、その北の方の返事をもらうまでに至ったのだが、作者は、「兼好が不祥(ふしょう)、公義が高運、栄枯一時に地を変へたり」と評して挿話を結ぶ。

 この話に対しては江戸時代以来、これを否定することによって兼好への好意的な弁解とする説も数多くあるようである。しかし、徒然草に見られる兼好の感覚からおしはかると、むしろ肯定的に想像する方が地下の兼好もうなずいてくれるような気がする。